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We are witnesses to these things── (Acts 5-32)

 



 小林秀雄氏は、かれの著作 「様々なる意匠」 で、「芸術」 「芸術家」 の性質を以下のように説明しています。

     芸術の性格は、この世を離れた美の国を、この世を離れた真
    の世界を、吾々に見せてくれる事にはなく、そこには常に人間
    情熱が、最も明瞭な記号として存するという点になる。芸術の
    有する永遠の観念というが如きは美学者等の発明にかかる
    妖怪に過ぎず、作品が神来を現そうと、非情を現そうと、気魄を
    現そうと、人間臭を離るべくもない。芸術は常に最も人間的な
    遊戯であり、人間臭の最も逆説的な表現である。(略) 吾々が
    彼らの造型に動かされる所以は、彼らの造型を彼らの心として
    感ずるからである。

     人は芸術というものを対象化して眺める時、或る表象の喚起
    する或る感動として考えるか、或る感動を喚起する或る表象と
    して考えるか二途しかない。(略) しかし芸術家にとって芸術
    とは感動の対象でもなければ思索の対象でもない。実践で
    である。作品とは、彼にとって、己れのたてた里程標に過ぎない。
    彼に重要なのは歩く事である。この里程標を見る人々が、その
    効果によって何を感じ何処へ行くかは、作者の与 (あずか) り
    知らぬところである。詩人が詩の最後の行を書きおわった時、
    戦の記念碑が一つ出来るのみである。記念碑は竟 (つい) に
    記念碑に過ぎない。

     人の世に水が存在した瞬間に、人は恐らく水というものを
    了解したであろう。しかし水を H2O をもって表現した事は
    新しい事である。芸術家は常に新しい形を創造しなければ
    ならない。だが、彼に重要なのは新しい形ではなく、新しい
    形を創る過程であるが、この過程は各人の秘密の闇黒
    (あんこく) である。

 これらの文が、もし、執筆者名を伏して示されたら、私は、三島由紀夫氏の 「文学評論集」 に収められている文と見紛 (みまが) うかもしれない──それほど、小林氏の文体と三島氏の文体は、「評論文」 では似ています。そして、ここに綴られている 「作品に対する意見──作品を作るための文学観ではない点に注意されたい──」 も、ふたりが とても似ていると私は思っています。三島氏は、かれの著作 「『われら』 からの遁走」 のなかで、(小林氏が 「里程標」 「記念碑」 と綴った事を) 以下のように言い切っています。

    過去の作品は、いはばみんな排泄物だし、自分の過去の仕事
    について嬉々として語る作家は、自分の排泄物をいぢつて喜ぶ
    狂人に似てゐる。

 おそらく、これが芸術家の本音でしょうね。芸術家に限らず、およそ、なんらかの 「フォルム」 を作ろうとしている人たちは、三島氏が吐露したのと同じ気持ちを抱いているでしょう [ モデル の定則を作る仕事に就いている私も、同じ気持ちを抱いています ]。或る作家が 「代表作」 を訊かれて 「次の作品 (次に書く作品)」 と謂ったそうですが、一理あると思います。私は、本 ホームページ のなかで、私の過去の著作に対して 「注釈」 を付していますが、過去の拙著で記した拙い論法 (すなわち、証明しないで直観的に断言している点など) を改訂したいがためであって──勿論、当時には、懸命に執筆したのですが、さらに、学習・研究を進めているので、昔に執筆した説明に対して不満ばかりを感じて──、過去の拙著は、本人にとって、小林氏の謂うように 「里程標」 でしかないのです。

 そして、本人にとっては、小林氏の謂うように、「重要なのは新しい形ではなく、新しい形を創る過程であるが、この過程は各人の秘密の闇黒」 です。たとえ、新しい着想が浮かんだとしても、実際に書き終わってみなければ、どうなるか わからない、というのが 「新しい形を創る過程」 です。本 ホームページ (の トップページ) で、「TM の バージョン」 を記載していますが、TM1.1 は、今年の 9月22日に記したので、最新の拙著 「いざない」 (今年の 2月に出版) の脱稿後に見えてきた点を追補した形になっています。

 「いざない」 を執筆していたとき、「entity」 の並びを説明するために、新たな着想として 「閉包・特性関数・外点」 を使った説明法を導入しました。それ以前では、「entity」 の並びを 「関係の対称性・非対称性」 の観点で説明していました。「いざない」 を脱稿した半年後に、「閉包・特性関数・外点」 に代わる説明法として 「『全順序・半順序』 および 『切断』」 を導入しました。「いざない」 の最終章の いちばん最後に示した 「合意、L-真 および F-真」 という モデル 構成が、当時の 「里程標」 「記念碑」 であって、それ以後は、それが 「起点」 になって、さらに歩みを進めたという次第です。

 私は、モデル と 20数年間にわたって向きあってきて、学問の定説を破らないで、かつ、単純に実用化できる 「モデル の定則」 を作ることに専念してきました。私にとって、9冊の拙著は、それぞれの時点での 「里程標」 でしかないのです。以前に執筆した拙著のなかの間違い・拙い点を次の拙著で改訂してきました。もし、読者が TM を批評するなら、最新の拙著 (「赤本」 および 「いざない」) を対象にしていただきたい。小林氏の謂うように、「この里程標を見る人々が、その効果によって何を感じ何処へ行くかは、作者の与り知らぬところ」 ですが、古い著作 (「黒本」) に対して改訂版 (「論考」 「赤本」 および 「いざない」) を出版しているにもかかわらず、それらの改訂版を無視されて、TM を批評されるのは、作者として口惜しい (心外です)。

 「芸術」 と 「コンピュータ 科学」 では、著作の性質がちがう、と謂う人たちがいるかもしれない。では、それらは どういうふうに ちがうのか、小林秀雄氏は、「概念」 「ことば」 および 「論理」 に関して、(上に引用した文のあとで、) 以下の見事な文を綴っています。

     子供は母親から海は青いものだと教えられる。この子供が
    品川の海を写生しようとして、眼前の海の色を見た時、それ
    が青くもない赤くもないことを感じて、愕然 (がくぜん) と
    して、色鉛筆を投げだしたとしたら彼は天才だ。しかしかつて
    世間にそんな怪物は生まれなかっただけだ。それなら子供
    は 「海は青い」 という概念を持っているのであるか? だが、
    品川湾の傍 (そば) に住む子供は、品川湾なくして海を
    考え得まい。子供にとって言葉は概念を指すのでもなく対象
    を指すのでもない。言葉がこの中間を彷徨 (ほうこう) する
    事は、子供がこの世に成長するための必須な条件である。
    そして人間は生涯を通じて半分は子供である。では子供を
    大人とするあとの半分は何か? 人はこれを論理と称するの
    である。つまり言葉の実践的公共性に、論理の公共性を
    附加する事によって子供は大人となる。

 この文は、小林氏の天才を まざまざと見せていますね──ウィトゲンシュタイン 氏の思想 (「哲学探究」) に通ずる点があるでしょう。そして、もし、「芸術」 が 「コンピュータ 科学」 と性質がちがうとすれば、「芸術」 では、以下の特徴があることを小林氏は認 (したた) めています。

    この言葉の二重の公共性を拒絶する事が詩人の実践の前提と
    なるのである。

    人は目覚めて夢の愚を笑う、だが、夢は夢独特の影像をもって
    真実だ。(略) 言葉もまた各自の陰翳を有する各自の外貌を
    もって無限である。虚言も虚言なる現象において何らの錯誤
    も含んでいないのだ。「人間喜劇」 を書こうとした バルザック
    の目に、恐らく最も驚くべきものと見えた事は、人の世が
    各々異なった無限なる外貌をもって、あるがままであるという
    事であったのだ。彼には、あらゆるものが神秘であるという
    事と、あらゆるものが明瞭であるという事とは二つの事では
    ないのである。如何なる理論も自然の皮膚に最も瑣細 (ささい)
    な傷すらつける事は不可能であるし、また、彼の眼にとって、
    自然の皮膚の下に何物かを探らんとする事は愚劣な事で
    あったのだ。

 そして、文中の 「バルザック」 を ウィトゲンシュタイン (「哲学探究」) と読み替えても、あながち的外れにはならないでしょう。

 
 (2009年10月16日)


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