小林秀雄氏の作品のなかに、「志賀直哉──世の若く新しい人々へ──」 があります。この作品は、長いあいだ [ 昔から ]、私 (佐藤正美) に対して 「非常に際どい」 問 (とい) を投げかけてきました。副題として綴られている 「世の若い新しい人々へ」 という意味は、「頭が観念でいっぱいになった人々へ」 ということで警告・皮肉として使われています。実際、この作品は、以下の挑発的な文で始まっています。
(略) 人々が当代のすぐれた作家に強いる公定なる言葉は、
常にみすぼらしくも不埒 (ふらち) なものである。今日まで
氏のために費やされた批評家等の祭資は巨額なものだが、
誰がこの独自な個性の軌道を横切ろうと努めただろうか。
私は全く知らないのである。
そして、上の文に続いて、小林氏は、いわゆる 「ロジック」──数理的・科学的な語・文と云ってもいいでしょう──に関して、以下の文を綴っています。
(略) 例えば数字の如き謙虚な、清潔な記号もあるのだが、
凡そ人間の使用する記号を傍若無人に宰領しているものは、
無限に雑多な環境の果実である最も豊富猥雑な言葉という
記号なのである。そこで世人が論理と呼ぶものは、実は論理
そのものではなく議論というものを指す、と言ってもいい。
そして、議論が、全く正しいという事のためには、一つの
言葉は明瞭に一つの概念を表すという頗 (すこぶ) る
たわいもない仮定が必要だ。
そして、小林氏は、かれの態度として、以下を明言しています。
(略) 私には、初等算術のように明瞭でしかも不明瞭な
あらゆる批評の尺度を信用する勇気がないのである。言葉
の陰翳というものを、いかなる場合にも軽蔑する勇気がない
のである。
以上に引用した文のみを対象にして私が なんらかの意見を述べるのであれば、さほど難しいことはないのですが、小林氏は以上の文に続けて、いよいよ、志賀直哉氏の批評に入って、志賀氏 (および、志賀氏の作品) に関して、以下の批評を綴っています。
しかるに、志賀直哉氏の問題は、言わば ウルトラ・エゴ
イストの問題なのであり、この作家の魔力は、最も個体的
な自意識の最も個体的な行動にあるのだ。氏に重要なのは
世界観の獲得ではない。行為の獲得だ。氏の歌ったものは
常に現在であり、予兆であって、少なくとも本質的な意味
では追憶であった例はないのである。(略) 強力な一行為
者の肉感と重力とを帯びて、卓 (すぐ) れた静物画のよう
に孤立して見えるのだ。こういう作家の表現した笑は、
必然に単一で審美的なのである。
この文に続いて、「清兵衛と瓢箪」 のなかから、「笑」 の例が引かれています。そして、小林氏は、さらに 「解析」 を進めて、志賀氏の 「思索の根本形式」 を以下のように観ています。そして、以下に引用する文が私を いつも悩ましてきたのです。
(略) 氏は思索と行動との間の隙間を意識しない。たとえ氏が
この隙間を意識するとしても、それはその時における氏の思索
の未だ熟さない事を意味する。あるいはやがて氏の欲情は
忽 (たちま) ちあやまつ事なくその上に架橋するだろう。
洵 (まこと) に氏にとっては思索する事は行為する事で、行為
する事は思索する事であり、かかる資質にとって懐疑は愚劣
であり悔恨も愚劣である。
(略) 古代人の耳目は吾々に較べれば恐らく比較にならぬ
くらい鋭敏なものであった。吾々はただ、古代人の思いも
及ばぬ複雑な刺激を受けて神経の分裂と錯雑とを持っている
に過ぎない。神経の複雑は神経の遅鈍を証しはしないだろう
が、また神経の鋭敏も証しはしない。今日、神経の多岐多彩
の プログラム を所有する作家の数は夥 (おびただ) しい。
だが神経の鋭敏な作家は寥々 (りょうりょう) たるもので
ある。恐らく吾々の神経組織を破壊するものは不健康な
生理ではなく過剰なる観念である。大脳の膨脹は小脳の
場所を侵害したのだ。つまり吾々の神経は古代人の生理的
鋭敏から観念的複雑に移動したのである。
志賀氏の神経は正に鋭敏なのである。
推進機の回転数が異常に増加してくれば、恐らく推進機は
推進機でも何でもなくなるが如く、理智の速度が異常に速や
かになれば、理智は肉体とは何んの交渉もない観念学と
変貌するが如く、神経もまたその鋭敏の余り人間行動から
遊離して、一種 トロピズム の如く、彼独特の運動を起すもの
である。(略) 氏の神経は氏の肉体から遊離しようとする、
だが肉体は神経を捕えて離さない。氏の神経は氏の肉体を
遊離するのだが、理智はこれに何ら観点の映像を供給しない。
そこで神経は苦しげに下降して実生活の裡にその映像を
索 (もと) めねばならないのだ。
こういう氏の神経を、私は古典的と呼んでいいかどうか
知らないが、神経質という言葉が、氏にとっては、一般
近代人等に較べて遙かに重要な意味を持っている事は
明らかである。如何に末梢的に見える氏の神経でも、
丁度 ショパン の最もささやかな装飾音符が、歯痛が
腹の辺 (あた) りまでひびいて来るような生ま生ましい
効果を持っているように、常に一種の粘着性を持っている。
以上の文を読んだときに、私の頭のなかに、或る人物 (哲学者) の影像が はっきりと浮かんできました──その人物とは、ウィトゲンシュタイン 氏です。
上に引用した文が どうして私を悩ましてきたのかという理由は、上に引用した文を 「『意識』 とは、『同時進行の自己記述』」 (Jaynes J.、認知科学者) というふうに、科学的に言うこともできるし、そして、その科学的知識を前提にして、「現実的事態」 と 「表現」 とのあいだで作用する 「個体」 を ブラックボックス として説明することもできる、という誘惑が私を被うから。私は、仕事上、「意識的に」 ブラックボックス 的構成を現実的事態に適用しようとするのですが、いっぽうで、文学的青年の性質が強いので、どうしても、「科学的説明」 を抑制する (あるいは、「科学的説明」 に対して疑義を抱く) 傾向があるようです。
もし、上に引用した小林秀雄氏の 「分析」 が外れていなければ、私は、志賀直哉氏に近い気質 (「神経質」) にあるのは確かでしょうね──勿論、志賀直哉氏は、日本の小説史のなかで燦然と輝く巨星であり、一介の エンジニア にすぎない私が かれの性質に似ていると謂っても なんの誉れもないのですが。そして、すぐれた表現力をもっている志賀直哉氏は、(かれの作品の) 「児を盗む話」 のなかで、その神経質な性質と相まって、生活上、意識と行為が一致した 「逞しさ」 を身につけているのですが、いっぽう、科学にも文学にも身を置くことのできなかった私は、「反 コンピュータ 的断章」 と 「反 文芸的断章」 のあいだで翻弄されて来たにすぎない。
(2009年11月 1日)