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The Lord knows that the thoughts of the wise are worthless. (1 Corinthians 3-20)

 



 小林秀雄氏の作品のなかに 「アシル と亀の子」 という一連の文芸時評があります。私は、この文芸時評集を大好きです。三島由紀夫氏の ことば を借りれば、「ぶつきら棒の内にある何ともいへない イキ な味はひを喜んだ」 というふうな作品です。「アシル と亀の子 T」 は以下の書き出しです。

     私は文芸時評というものを初めてするのである。川端康成氏に、
    「今月の雑誌一 (ひ) とそろい貸してくれないか、文芸時評を
    書くんだ」 と言ったら、「君みたいに何んにも知らない男がかい」
    と、彼はふきだした。何も弁解なんかしてるんじゃない。私はただ、
    最近、文芸批評家諸氏の手で傍若無人 (ぼうじゃくぶじん) に
    捏造 (ねつぞう) された、「アジ・プロ 的要求」 だとか、「唯物
    弁証法的視野」 だとか、「文壇的 ヘゲモニイ」 だとか、等々の
    新術語の怪物的堆積を眺めて、茫然として不機嫌になっている
    ばかりだ、という事を、まずお断りして置く方がいいと思ったので
    ある。

 この文のあとで、小林氏は、みずからの批評が立っている基本的な考えかたを以下のように述べています。

     仲間が仲間の符牒 (ふちょう) を発明して行くのは当然な事で
    あって、例えば テキ 屋諸君は テキ 屋諸君の符牒を活用する。
    そして彼らの間では、符牒は実際行為に関して姿をあらわすだけ
    だから、符牒は常に正当な役割を謙虚に演じている。だが、批評家
    諸君の間では、符牒は精神表現の、あるいはその伝達性の困難を、
    故意にあるいは無意識に糊塗 (こと) するために姿をあらわして
    来るのだから話が大変違ってくる。この困難を糊塗するという事は、
    別言すれば、自分で自分の精神機構の豊富性を見くびってしまう
    ことに他ならない以上、見くびられたこの自分の精神機構の豊富
    性の恨みを買うのは必定 (ひつじょう) であって、符牒は勝手に
    反逆し、自分の発明した符牒が人をまどわすと同程度に当人を誑
    (たぶら) かす。馬鹿を見るのは読者ばかりではない、批評家
    当人たちも仲間同士の泥仕合で馬鹿を見ている。

 そして、この文のあとのほうで、以下の文を記しています。

    私はこういう符牒に信用を置かない男だ。符牒に信用を置かない
    という事が批評精神というものだと信じているものだ。

 そういう態度を基底にして、かれは、ふたつの論文──中河與一氏の 「形式主義芸術論」と、大宅壮一氏の 「文学的戦術論」──を 「非難」 しています。
 曰く、

    芸術を愛している小説作家と芸術などを愛する事は愚劣と信ずる
    文芸批評技師とによって書かれたこの二つの論文はもちろん
    大へん趣 (おもむき) の変わったものだが、両方とも同じように
    仰々 (ぎょうぎょう) しく (颯爽 (さっそう) としているという人も
    あるかもしれない)、同じように粗雑な論理で (簡潔だという人
    もあるかも知れない)、著者の心底を見極めようとしたら、大骨
    を折らねばならぬ、という点で私を退屈させた。私の退屈は自体
    問題にならないが、この二人の著者に向って懐疑的なものを
    言おうとなれば色々と不満が出てくるのである。一層いけない事
    には、私にとっては最も重要とみえる、最も困難とみえる問題が、
    この不満の裡 (うち) にあるという事だ。この二論文集が、私に
    とって一番本質的とみえる問題からは、そっぽを向いてしまって
    いるという事だ。従って二氏に対して私の不満を明瞭にするより
    他語る処がない事を遺憾とする。

 この文のあとで、小林氏は、争点を一つずつ述べてゆくのですが、私が かれの批評のなかで 「ぶつきら棒の内にある何ともいへない イキ な味はひ」 を感じたのは以下の文です──文芸批評技師と揶揄されている大宅壮一氏に対する非難です。

    抽象論だ? 冗談言っちゃいけない、論理を極限までもって
    行かないから、あなたのような掛声ばかり騒がしい論文が
    出来上がるのである。抽象論なんてものはない。ただ、論理
    だけがあるのだ。抽象論などとびくびくしている人は、初め
    から論理なんてものに戯れないがいい。

 痛快ですねえ。私は、文句なしに、小林秀雄氏に拍手します。
 三島由紀夫氏なら、小林秀雄氏に同調して、以下のように批評するかもしれない。(参考)

    なァにをいってるんだといいたいね。忿懣にたえんねえ。
    あそこまでいっちゃったんだよ、ウソ でね。要は彼に論理の
    本当の恐ろしさを気づかせてやりゃあいい。あの人は悲劇の
    人だと思うんです。守るべき自意識がないんだよ。ああいう
    連中に対して芸術を守るということは、自分の自意識 (自尊
    心) を守ること以外にない。

 実際、小林秀雄氏は、「アシル と亀の子 T」 を以下の文で終えています。

    私はただ貧乏で自意識を持っているだけで、私の真実な心を
    語るのに不足はしないのだ。

 
(参考)
  「若き サムライ のために」 のなかで記されている いくつかの文を集めて構成して
  みました (笑)。ただし、いちぶ、語を変更しています。

 
 (2009年11月23日)


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