小林秀雄氏は、プロレタリヤ 作家対芸術派作家の討論会の速記を読んで、「アシル と亀の子 U」 のなかで、「旋毛曲 (つもじまが) りに語る」 と題して以下の文を綴っています。
現代の青年は マルクシズム 青年と、エロティシズム 青年と二つ
に別れるなどとは文学青年の寝言である、世間は広い、文学なんか
屁 (へ) とも思わない、冷酷な教養をもった勤勉な青年がいくら
いるか分りはしない。
諸君の綿々たる饒舌 (じょうぜつ) は一体どんな地盤の上に立って
いるか、言うまでもなくそれは文学という地盤であろう。そしてその
文学なるものは昔ながらの素朴さで理解された文学ではないか。
諸君の鼻の下には昔ながらの文学という大提灯がぶらさがっている
ではないか。文学について騒々しい議論をしている現代の青年文学
者たちが一人として文学というものを疑わないとは妙な現象である。
(略) 諸君の喧嘩の基底において、文学は昔ながらの感傷と素朴と
をもって是認されている点で、プロレタリヤ の諸君も芸術派の諸君も
同じに私には見えるのだ。
恐らく諸君は抗言する、吾々の理解する文学は昔ながらの文学では
ない、マルクス 主義世界観に立つ文学だ、あるいは近代感覚を通し
て眺めた文学だ、と。如何なる点から文学が理解されようが、理解
された文学とは死物である。諸君も文学者である限り、文学を対象
化して理解する事と、文学を形成する事とは異なった二つの現実で
ある事を了解すべきである。文学活動を人間活動、生産労働から、
あるいは遊戯本能により解釈する事は可能である。また、文学という
現実形態に、人は勝手に感動する以上、この形態を感動の総和と
見て、理念により、感情により解釈する事が出来るにも明瞭であろう。
だが次の事実も同様に明瞭なのだ。つまり、これらの解釈が作家に
何物をも教えないというのは愚かであろうが、これらの解釈は作家
の実践を聊 (いささ) かも容易にはしないという事だ。彼が現実に
おいて必要なのは常に新しい努力である。彼が創作の各瞬間ごと
に依然として無限の前に手を振らねばならないとは一体どうした
筋合いのものだろう。
諸君の喧嘩で文学が論議されるに際して、プロレタリヤ 派は社会
学的関心を捨てる事を恐れ、芸術派は美学的関心から自由になる
事を恐れている。芸術はその固有な形態で諸君の意識の裡に存し
ていない。しかも諸君は自ら制作にたずさわる若々しい芸術家では
ないか。諸君の制作過程には、恐らく諸君の議論にはおかまいの
ない溌剌たる制作固有の法則が動いているのではないか。諸君の
論争の奇体な錯乱はそこにある。
「旋毛曲りに語る」 は、短い エッセー で、私が上に引用した文だけで全体の 60%くらいを占めています。そして、「旋毛曲りに語る」 で一刀両断にされた 「論争の奇体な錯乱」 は、返す刀で、同じ 「アシル と亀の子 U」 のなかに収められている──「旋毛曲りに語る」 の次に綴られている──「三木清氏へ」 という エッセー にも振り向けられています [ 次回に取りあげてみます ]。
さて、「旋毛曲りに語る」 で綴られた論調は、「様々なる意匠」 で表明された彼の批評態度の延長線上にあるので、彼が どういう対象を指弾しているか を理解するのは簡単なのですが、私が戸惑った文は、以下の文です。
依然として無限の前に手を振らねばならない
この文のなかの 「手を振る (手を振らねばならない)」 という意味を私は掴みかねています。「手を揺り動かす」 行為なのですが、以下のいずれの意味なのかを掴みかねています。(補遺)
(1) 無限といえるほどの記述の可能性を前にして、適確な相手 (新しい
記述 [ フォルム ]) を探そうとして手を振っている。
(2) その意味から派生して、無限のなかで、じぶんの ちからを計量して、
ひたすら足掻いている (もがいている)。
(3) あるいは、無限にサヨナラして、現時点で、じぶんの ちからの限り
に刻むことのできる──すなわち、「今ここで」 じぶんの 「個性」
を刻もうと──している。
(4) 「手を揺り動かす」 から派生して、手を揺り動かさなくても、なんらか
の一定の視点 (あるいは、道しるべ) で無限のなかの道を歩くことが
できる訳ではない、ということを示している。
こういう 「多義な」 文を許した小林秀雄氏に対して、私は、少々、立腹しています──まして、彼は、文筆を生業にしている批評家なのだから。この文 (「手を振らなければならない」 という文) の前で、かれは、「必要なのは常に新しい努力である」 と綴っているので、たぶん、私が示した 4つの意味を すべて ふくんでいて、さらに、作家にとって 「(事前に舗装された) 歩むべき道というのはない、歩いた跡が道になる」 という意味も暗示しているのかもしれない。
さて、私が本 エッセー で考えてみたい点は、文学が個々の事象を対象にしているにもかかわらず──そうでなければ、ストーリー を構成することができないので [ 汎化された ストーリー というのは、科学の証明であって、文学ではないので ]──、われわれが、たとえば小説を読んで しかじかの事態に感動したとしても、ストーリー を読んだあとに遺るのは 「感動」 という 「曰く、言い難い」 状態と同時に、感動の総体に対して なんらかの 「名づけ」 をしたいという欲求が起こるようです。すなわち、個々の具体的な文を跡追い、それらの総体に対して抽象的な クラス 概念を付与するという欲求が起こるようです──そして、その クラス 概念は、たいがい、じぶんが すでに頭のなかに持っている抽象語のようです。たとえば、三島由紀夫氏の 「仮面の告白」 を 「人生に適合できない人間の 『仮面』 の悲しみを一人称で描いた」 とか、「金閣寺」 を 「現実社会から隔離された青年僧の美意識と孤独感を描いた」 とか、「憂国」 を 「政治的殉教とエロス の燃焼という統合」 とか。
小林秀雄氏は、「理解された文学とは死物である」 と謂っていますが、彼が指弾している 「理解」 というのは、たぶん、感動の総和に対して付与された クラス 概念のことでしょうね。というのは、小説を読んで、個々の文を 「理解」 できなければ、およそ、「感動」 など生まれないから。
作品を評した クラス 概念に対して われわれが注意しなければならない点は、その クラス 概念は具体的な小説を要約した概念ではない、という点でしょうね。というのは、たとえば、「人生に適合できない人間の悲しみを一人称で描いた」 という性質は、「仮面の告白」 に限ったことではないし──それでも、「仮面の告白」 を指示しようとして、書評文のなかに 「仮面」 という語を入れて特性化しようとしていますが──、「現実社会から隔離された人間の美意識と孤独感を描いた」 小説は、なにも、「金閣寺」 に限らないのであって──それでも、「金閣寺」 を指示しようとして 「青年僧」 という語を入れて特性化しようとしていますが──、それぞれの クラス 概念は、小説とは べつの性質を帯びています。「人生に適合できない人間の悲しみ」 を描いた小説は、「仮面の告白」 のほかにも多数存在するし、「現実社会から隔離された人間の美意識・孤独感」 を描いた小説も、「金閣寺」 のほかに多数存在します。
私は、そういう書評文を悪いと謂っているのではなくて、そういう書評文と、その評の対象になっている小説は、それぞれ、役割がちがうのだし、文学を知るには、文学作品を読むほかに手立てはない、ということを謂いたいのであって、書評文の 「意匠」 に惑わされて文学を知ったように錯覚するのは愚かだと謂いたいだけです。ドストエフスキー の 「罪と罰」 に対する 「社会の矛盾と人間性回復の願いを盛った作品」 という批評文を読んで、いったい 文学の どういうことを知ったというのかしら、、、。
小林秀雄氏が 「様々なる意匠」 「旋毛曲りに語る」 で指弾した公式主義は、集合的性質 (クラス 概念) と周延的性質 (メンバー の性質) を単に混同しているにすぎない連中の戯言だと私は判断しています。というのは、個々の事態を描く行為 (小説を作る行為) と、小説を読んで その物語の性質に対して クラス 概念を付与する行為は、当然ながら、「階の」 ちがう概念を扱っている行為でしょうから。しかし、そこに罠があって、文学の 「本質」 などという幽霊が背後に立っていて、「本質」 などと言い出したら、クラス 概念を いくつか対象にして、「本質」 を掴まえるには、それらの いくつかの クラス 概念の論理積を導出すればいいという誘惑に陥るようです。「神は人類を愛する」 「親は子を愛する」 「異性を愛する」 などなど、そして、それらの態度に 「共通する」 性質として、ついには、「愛は実存するのか」 と言い出す始末、、、。「愛」 は、個々の具体的な 「愛する」 状態の論理積ではないでしょう──「愛」 という概念語は、さまざまな 「愛する」 行為を ひとつの フォルダ に入れておく透明な ラベル にすぎない。
もし、そういう 「本質 (人間行為の本質)」 を描くのが文学であるならば、文学など無視して、「冷酷な教養をもった勤勉な青年」 になって行為そのものを実践するほうが人生を もっと愉しめるでしょう。しかし、文学には、「本質」 などという奇体な抽象語では捉えられない・もっと恐ろしい 「毒汁」 が流れていて、この 「毒汁」 を ちょっとでも口にしてしまったら、ちょっとやそっとでは、文学から離れられない阿片的性質がある──その 「毒汁」 を感じるためには、試しに、ドストエフスキー を読んでみてください。もし、ドストエフスキー を読んで、なにも感じなかったら、或る意味で──しかも、「良い」 意味で──、あなたは ハッピー だと思っていいでしょうね。というのは、私は、この 「毒汁」 を呷 (あお) って、「人生を愉しむ気持ち」 が萎えてしまったので。
(補遺) [ 2010年 2月13日 ]
「無限の前に手を振らねばならない」 と同じ (あるいは、似た) 表現を、かれの他の作品 (「梅原龍三郎」) のなかで見つけました。
画集の終いに「北京秋天」という画がある。これは緊迫した感じの立派な画
である。朝が来る毎に長安街は新しく生れた。或る日すばらしい曙が来て、
秋空は画面の中程までも下りて来た。女達は、緑のなかにある赤い屋根の下
で、めいめいもぎ取ったばかりの「薔薇の花」を、大きな手で掴んで、身動き
もせず眼を据えて、森や山や街と一緒に昇天する機を待っているだろう。画家
の姿も見える。彼は、たった一人で無限の前で手を振っている様な様子をして
いる。彼の独語さえ聞えて来る様だ――もし、あの紺碧の空に穴を穿ち、向う
側にあるものが見られるなら、どんな視覚の酷使も厭うまい、と。だが、曖昧
な感傷なぞ一切許さぬ代り、あらゆる情緒も拒絶している様なこういう飽くまで
も明るい色彩は、僕等を不安にする何物かを含んでいる。僕等は、言ってみれ
ば、熱線を伴わぬ短波の光を浴びて、恍惚境にいるのだが、どうも幸福境には
いない様である。その辺りがルノアールとは異なるところだ。天は果して裂ける
であろうか。
「無限の前に手を振らねばならない」 という意味は、文脈から判断すれば、「閉ざされた (範囲が限られている) 現実に対して風穴を開けて 『美』 の世界 (無限の世界) に入る」 ということですね。私 (佐藤正美) が本 エッセー のなかで想像した 「意味」 のなかで、(1) と (2) が相応するようです。
(補遺) [ 2011年 5月 3日 ]
「ドストエフスキイの生活」 のなかに次の文が綴られています (最終章 「10 死」)。
無限の前に腕を振る様な絶望的な身振りを見る。
(2009年12月 1日)