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And so they stumbled over the "stumbling stone" (Romans 9-32)

 



 小林秀雄氏は、「アシル と亀の子 U」 のなかで、三木清氏が示した 「芸術的批評の立場はまた社会的に批評されねばならぬ」 という説に対して、以下の反論を綴っています。

    一と口に印象批評と言っても ピン から キリ まであるわけだ
    が、作品の個人による鑑賞という事実を信用する限り、人は
    印象批評から逃げられない。逃げられない以上恐れる事は
    無益である。人は己れの印象を精密にし豊富にする事を努め
    ればよいのである。芸術活動は物質的技術を離れては成り
    たたぬという宿命を持っている。それは人の思惟活動が言葉
    という物質的技術を離れて成り立たないと一般である。作者
    の精神は常に彼の技術と不離である。人は思案するものが
    画家の頭であるか指先であるか知る由もない。作者の技術論
    とは彼の認識論以外のものを指しはしないのである。これは
    実に平凡な事実だが、人々によって忘れられるのだ。忘れる
    からこそ作品と イデオロギイ の関係について数々の駄言が
    跳梁 (ちょうりょう) するのだ。何故人々がこの平凡な事実を
    忘れるかというと、日常生活においても人々は精神の考えた
    処を言葉が表現するのだという迷妄を如何にしても忘れられ
    ないからである。ところが事実、人は考えるのは自分の精神
    なのか自分の言葉なのか知る由もないのである。考えると
    いう事と書くという事は二つの事実を指してはいないのである。
    言葉という技術を飛びこして何か考えるなどとは狂気の沙汰
    である。

    印象批評と技術批評の区別などとは、そもそもおかしな事で
    ある。単なる印象の心理分析に止まらず、更にその心理の
    技術的基礎まで進むなどとは無益の言葉の洒落である。さて
    この技術の社会的基礎とは? 人は闇黒の前に馬鹿面をして
    立つだろう。学者から階級とか経済とかいう社会学的概念を
    武器として貸してもらったとしても、大砲で バクテリヤ を
    狙う事業に等しかろう。

    作品の個人による鑑賞という事実を捨てぬ限り印象批評を
    捨てる事は出来ぬ、これは如何なる意味もつか。恂 (まこと)
    に印象批評なるものは次の如き困難な事情に誠実でなけれ
    ばまた無用の代物なのである。それは批評家が頭から信用
    出来るものは眼前の作品だけであるという事実である。人は
    作品を鑑賞するに際して様々な助言を受けるからだ。プレハ
    ノフも助言する、フロイト も助言する、作家の伝記も助言する
    だろう。だが、これは結局人を知るのに、人の噂が役に立つ
    とか役に立たぬとかという問題を出ない。人を知るのには、
    その人を直かに生まな眼で眺める外に得心の行く手段はない
    のである。その人の作品とは眺められたその人の顔である。
    作家にとって作品とは彼の生活理論の結果である。しかも
    不完全な結果である。だが批評家にとって作品とは、その
    作家の生活理論の唯一の原因である。しかも完全な原因で
    ある。これは絶望的に困難な事情だ、だから人は見ぬ振り
    をする、だが事実は依然として事実である。また社会の或る
    生産様式が或る作品を生むと見る時、その批評家にとって
    作品とは或る社会学的概念の結果である、だが、個人の
    鑑賞において、作品とはその批評家の語らんとするところの
    原因である。ここに社会的批評と芸術的批評との間の越え
    難い溝があるのである。

 「精神・思考は、技術に較べて高尚である」 というような考えかたを私は嫌っていて (本 ホームページ 314ページ 参照)、小林秀雄氏の意見に賛同します。そして、たとえ、われわれが ことば で考えているとしても、「脳内で起こる パルス (pulse) の速度を随意に コントロール して読み取る」 ことができないのであれば、脳内の パルス に対して (眼に見える) フォルムを与えないかぎり──すなわち、文として認 (したた) めないかぎり──、われわれは 自らの思考を 自分ですら 「確かに認める」 ことはできないでしょう。「書きながら考える」 という行為は、およそ、なんらかの 「表現」 を試みるのであれば──それが芸術作品であれ、ロジック の数式であれ──、正当な・唯一の行為でしょう。

 そして、その行為が個人によって実践されるという前提において、複数・多数の人たちのあいだで同一の思考など起こりえない。われわれは、言語で表現された他人の思考を追跡できても、その表現に至った他人の脳内 パルス を同じ状態で われわれの脳内に復元できる訳ではないし、作品を読むという行為は、作品のなかに描かれた世界を追体験することであって、作品を生み出した作家の制作過程を追跡することではないでしょう。しかも、制作過程は、作家にとっても暗中の道程であって、われわれが作家の制作過程を追跡しようとしても、所詮、われわれの憶測にすぎないでしょう。

 「作家が事態に対して どのような 『解釈』 をしたのか」 を 「逆解析する」 ために「作家の伝記」 を読んだとしても、作家の生きかたに対する共感・反感のほかに感じることがあるのかしら。というのは、もし、作家の生活を詳細に調べたとしても、作家が生活のなかで それぞれの行為において どのように感じ考えていたのかを すべて 明らかにすることなどできないのだから。それらの すべての パラメータ (変数) を拾って、作家が描いた作品の原因とするのは、変数が多すぎて、土台、把握しきれないでしょう。

 ヨハン・セバスチャン・バッハ は すぐれた音楽家だったが守銭奴だったという 「事実」 が、いったい、かれの作品にとって、どういう原因になるというのかしら──逆に、バッハ は守銭奴だったが すぐれた音楽を作ったというのが かれを音楽家にしている理由ではないかしら。ベートーヴェン は聾の状態で作曲したという事実は、かれの作品に対する評とは無関係であって、かれを すぐれた音楽家にしている理由は すぐれた音楽を作ったという点にしかないでしょう。もし、ベートーヴェン の耳が ふつうに聞こえる状態で 「第九」 を作っていたら、「第九」 の評価は落ちるのかしら、、、。それとも、かれの耳が ふつうに聞こえる状態であったら、「第九」 を作る動因は生じなかった──逆に言えば、耳が聞こえなかったから、「第九」 を作ることができた──というふうに考えるのが 「生活理論」 で作品を把握するということかしら、、、。それとも、「苦難と戦う」 という かれの 「生活理論」 が すぐれた作品を生んだとでも謂えば、かれの作品を 「解釈」 したことになるのかしら、、、。

 「作品は、自立した存在 [ なんらかの範囲のなかで なにがしかの事態を物語っている構成物 ] である」 と考えて、それ以外の概念を外から持ち込まないで読むのが 「解釈 (あるいは、解析)」 の前提ではないかしら。ただし、そういう作品を作った作家に興味を抱いて、その作家の生きかたを調べたいと気持ちが起こってもいいのだけれど、そういう興味は、作品に対する 「解釈」 とはちがう評でしょう。

 小林秀雄氏は、作家と作品と批評家の関係を以下のように観ています。

 (1) 作家にとって作品とは彼の生活理論の結果である。
    しかも不完全な結果である。

 (2) 批評家にとって作品とは、その作家の生活理論の唯一の原因である。
    しかも完全な原因である。

 上に示した関係── R ( 作家, 作品 ) と R ( 作品, 批評家 ) という それぞれの 2項関係──において、もし、小林氏の意見が正しければ、それらの関係のなかで推移律は成立しないでしょう。というのは、R ( 作家, 作品 ) は 「生活」 の文脈のなかで起こる関係であって、「生活 (あるいは、社会的批評)」 が関与するけれども、いっぽうで、R ( 作品, 批評家 ) では、批評は つねに個人事 (あるいは、芸術的批評)」 である、ということ。そして、社会的批評と芸術的批評のあいだで、推移律を成立させる存在物──前回の 「反文芸的断章」 で述べたように、 「芸術的批評 → a, a → 社会的批評」 を構成する存在物 a ──を因果関係のなかで項 (充足される値 [ 真とされる値 ] を持った変数) として導入できない、ということ。その状態を小林氏は、「これは絶望的に困難な事情だ」 と吐露しています。しかし、その a を仮想して、「芸術的批評 → 社会的批評」 を構成できる、と三木清氏は考えているようです。もし、a が項として存在するのであれば、社会的批評は芸術的批評の必要条件になるでしょう。そういう呑気な考えかたを小林氏は学者根性として非難したのです。三木氏の論法が脆弱であることは、以下の質問をしてみればいいでしょう──「では、その a を示してください」 と。その a を示さないかぎり、三木氏が 「芸術的批評は社会的批評にまで至らなければならない」 と謂っても、論理の飛躍でしかない。

 そして、「芸術的批評は社会的批評にまで至らなければならない」 という言が、一見、「颯爽とした」 評として聞こえるのを私は憂慮しているのです。

 
 (2009年12月16日)


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