このウインドウを閉じる

... many other miracles which are not written down in this book (John 20-30)

 



 小林秀雄氏は、「アシル と亀の子 V」 のなかで、滝井孝作氏と牧野信一氏を評して、「私は正直なところ、現代の新進作家達の裡 (うち) で、この二作家ほど新鮮溌剌たる心を持っている人を知らない、この二作家ほど個性的な新しい表現を わがものとしている作家を知らないのだ」 と述べて賛辞を呈しています。

 私 (佐藤正美) は、滝井孝作氏も牧野信一氏も読んでいないので、かれらの作品に関して どうこう評することができないのですが、かれらを評した小林秀雄氏の文のなかで、作品を批評するときの小林秀雄氏の 「思索の根本形式」 を私は確認できました。小林氏は、牧野氏を評した文のなかで、以下の文を記しています。

    例えば人は、最も精密な理論を辿りあぐんで、緊張した理論の
    裡にいる時、理論そのものが欲情をもって、君の知らない歌を
    歌ってくれるように思った事はなかったか。対象が限りなく解析
    されて行く時、理論の糸も遂に切れねばならぬ、人はもう対象の
    ない解析の力だけしか感じる事は出来ぬ、そんな時、この力が
    君の知らない理論の影像を、突然見せてくれるように思った事
    がなかったか。

 そして、「かような言わば理論の一種の眩暈 (げんうん) を知らない理智は、牧野信一の作品を読んでも無駄事であろう」 と小林氏は断じて、牧野氏を詩人と見做 (みな) しています。小林氏は、「様々なる意匠」 のなかでも、似たような ことば 「解析の眩暈の末」 を使って、みずからの批評の しかた を露わにしています。この点を見逃すと、小林氏の批評が、まるで 「印象批評」 のように思い違いしてしまうでしょうね。しかし、小林氏は作品を徹底的に 「解析」 したあとで、「解析の眩暈の末」 に、作品が自 (おの) ずから語る (影像を見せてくれる) まで辛抱強く待っている。言い換えれば、小林氏は、作家が自 (みずか) らの制作理論に従って構成した作品のなかに込めた 「主調低音」 を じっと聴いています。そして、その 「主調低音」 を鷲掴みにして小林氏は評を綴る。だから、かれの批評は、その文体と相まって、一見、「印象批評」 の感が漂うのかもしれない。小林氏の批評のやりかたに対して 「作品の前で分析を放棄する」 という馬鹿げたことを言っているひとは、小林氏の 「作品」 を──私は、敢えて、こういうふうに謂っておきますが──ほんとうに読み込んだのかしら、、、。

 上に引用した文は、「解析」 の状態を記しているので、批評するときの態度にように思われるかもしれないのですが、凡そ、なにがしかの作品を制作するときに感じる 「眩暈」 でしょう──私のような エンジニア でさえ、TM を作ったときに同じ感覚を覚えました。そして、この感覚が 「文体」 を持ったという点に、小林氏の批評の特徴が出ていると思います。つまり、かれの評論文が 「芸術作品」 になった、と。

 上に引用した文のほかにも、「アシル と亀の子 V」 のなかで、「小林氏が 『小説』 を どのように考えているか」 吐露した一文を私は拾いました。それは、以下の文です。

    氏の眼は人生から自然に逃げない。正統な小説家として自然
    から人間を演繹しているのである。

 三島由紀夫氏と小林秀雄氏は、一度、対談していますが、それが最初で最後だったそうです。小林氏の言によれば、小林氏は三島氏の天才を認めていたけれど、「『自然から人間を演繹する』 小説を構成する」 作家を正統な小説家と考えている小林氏にとって三島氏は気質が ちがうので、「金閣寺」 以後は三島氏の作品を読んでいないとのことですが、私が三島氏の作品を読んできた印象では、三島氏は小林氏の作品を そうとう読み込んでいたように思われます──ただし、それは、三島氏の作品から感じる私の印象であって、事実がそうかどうかは私にはわからないのですが、私には、ふたり (三島氏と小林氏) の 「文学観」 がちがっていても、ふたりが 「作品を評する」 態度には家族的類似性が強いように思われます。文芸批評は文学作品に対する評なので、つねに、文学作品の風下に立つ運命なのですが、小林氏においては、逆も真になるという点が小林氏の天才たる所以でしょうね。

 
 (2010年 1月 1日)


  このウインドウを閉じる