小林秀雄氏は、「アシル と亀の子 ⅳ」 のなかで、「一つの根本的な問題について」 を綴っています。この エッセー の題が示すように、この エッセー では、小林秀雄氏の評論の基底になっている考えかたが明 （あか） らさまに提示されていて、私の好きな エッセー の ひとつです。そのなかから、「小説」 に対する小林秀雄氏の 態度を明らかにしている文を以下に引用します。引用は長くなりますが、途中で切れないので──途中で切ったら、彼の考えかたがわからなくなるので──、辛抱強く読んでみてください。
われわれの精神もまた言語という商品に慣れて、その魔術性に
誑 （たぶら） かされている社会である。久しい間、人間社会の
暗黙の合意の裡に生きて来た言葉は、その合意の衣をかなぐり
捨てねばならぬ。合意の衣とは言葉の強力な属性に他ならぬと
いう事だ。古来あらゆる最上作家等の前提は、言わば言葉の
裸形の洞見に存した事は疑いない。（略）
自然は常に人間精神の試金石である。いったん事物を言葉に
翻訳する事に依って、言葉の本来の性格を見失った精神の迷妄
は、また、これを事物にひきずり下す事に依ってしか救う道はない。
あるいは事物が言葉に翻訳される時、その言葉もまた一事物で
あるから、その言葉が、人間の共有の財産として固定する以前に、
その一事物たる全貌が直覚されねばならぬ。（略）
「アンナ・カレニナ」 が、大小説である所以は、そこに描かれた
カレニナ 夫人の心理が心理学者の端倪 （たんげい） を許さぬ
がためではない （心理学者などというものは、どんな心理に出会
しても驚かぬ覚悟のある人物を言うのである）、そこに彼女が肉体
をもって行動する一性格として見事に描かれているがためである。
こんな事を今更語ると、人々はわかり切った事を言うというであろう
が、人間の性格は心理にあると信じる迷妄から人々は決して脱して
いないのである。この迷妄を脱する事は、難しい。その証拠には、
諸君は次の ドストエフスキイ の名言が何の苦もなく了解出来るか。
「人々は私を心理派だという。だが私は決して心理派じゃない、
私は単なる写実派に過ぎない」 と。（略）
心理とは脳髄中にかくされた一風景ではない。また、次々に言葉
に変形する太陽下にはさらされない一精神でもない。ある人の
心理とは、その人の語る言葉そのものである。その人の語る言葉
の無限の陰翳 （いんえい） そのものである。と考えればその人の
性格とは、その人の言葉を語る、一瞬も止まる事なく独特な行動
をするその人の肉体全体を指す、という考えに導かれるだろう。
さて、この性格なるものを、ドストエフスキイ が、写実したと
する。どういう事になるか。
例えば、ドン・キホオテ を読んだ人は、檻に入れられた ドン・
キホオテ と、従って行く サンチョ・パンザ との会話を読んで
荒唐無稽 （こうとうむけい） と笑うであろう。（略） しかし、諸君が、
諸君のあやまたぬ能力で、諸君が健康だと信じる人間の最も
精密な、感情的な会話を正直に写実してみたまえ。諸君は恐らく、
ドン・キホオテ と その従僕との会話と同程度に荒唐無稽の手記を
得て驚くであろう。ところで、現実ではこの会話は正当に通用した。
この場合、諸君の手記に写されなかったものは、両人の姿態と、
言葉に抑揚 （よくよう） による無限の陰翳だ。この時姿態を
割引きして考えるとしても、二人が会話を完全に遂行した所以は、
二人が互に相手の言葉の無限の陰翳に忠実であった事による。
この瞬間二人は相手の絶対言語を直視していたという点で正に
芸術家であった。だが、かかる瞬間は、まことに、実生活中で、
人目をしのんで明滅する瞬間なのである。では、写実とは常に、
それが正確であれば正確なほど、荒唐無稽と見えるのであるか。
正にその通りである。自ら写実派と公言する ドストエフスキイ
の作品について、しばしば言われるその怪奇性の如きは俗流の
幻に過ぎぬ。彼の怪奇性は、彼の写実主義において捕えられる
時、初めて正当に人を動かす真実となる。
「一つの根本的な問題について」 は、「わたしの評論がむつかしいという奇態な抗言をしばしば聞く」 という文ではじまって、小林秀雄氏は、「凡 （およ） そ理屈というものを述べた覚えはないのである」 と反論しています。
さて、上に引用した文を読めば、小林秀雄氏の 「逞しさ」 の一因になっている態度──彼の言を借りれば、「常識しか信用していない」 とか 「符牒に信用を置かない」という態度──が正に本当であることを理解できるでしょう。そして、小林氏が三島由紀夫氏と対談したときに、「金閣寺」 に対して 「稀有な才能を認めるけれど、写実ではない」 と言い切った意味も理解できるでしょう。「アシル と亀の子 ⅳ」 は、小林氏の文芸批評観を理解するうえで鍵となる エッセー だと思います。
上に引用した小林秀雄氏の考えかたと、ウィトゲンシュタイン 氏の考えかたが とても似ていることを私は感じました。
（2010年 1月 8日）