「アシル と亀の子 �D」 で 「広津和郎氏へ」 を綴った理由について、小林氏は、冒頭で以下のように述べています。

　　　　氏の近作 「昭和初年の インテリ 作家」 に対して、人々が作品の
　　　　出来栄えなどというくだらぬ事のみ云々し、この作品に描かれた
　　　　文士の実生活的無能という事実については、誰も口を噤 （つぐ） ん
　　　　だという氏の忿懣 （ふんまん） が、蒸し返されて今度の 「文士の
　　　　生活を嗤 （わら） う」 なる一文を成したのである。「昭和初年の
　　　　インテリ 作家」 を読んだ私は、「文士の生活を嗤う」 において前作
　　　　の蒸し返し以上のものを期待していたのであるが。

　　　　ある作家が、一般作家の生活を嗤う以上、そこに、その作家の生活
　　　　に対する個性的な見解が語られていなければ読者は退屈するので
　　　　ある。（略） こういう読者のうちの、文学を愛する一読者が、氏の
　　　　「文士の生活を嗤う」 を読み、この文章は一体作家が書いたのか、
　　　　出版屋が書いたのか、と思案して沈黙していないとも限らないので
　　　　ある。それほどこの感想文に現れた作家の面貌は、朦朧 （もうろう）
　　　　として蒼ざめている。なるほど正義の情熱はこの一文に漲 （みなぎ）
　　　　っているが、重要なものは作家たる情熱の明らかな像ではないのか、
　　　　面目ではないのか。

　上の引用文で綴られているように、広津氏の 「文士の生活を嗤う」 の どの点に対して、小林氏が不満を感じたのかが、まず、明らかにされています。小林氏は、「作品の出来栄え」 「作家の面貌 （あるいは、面目）」 を争点にしています。この争点に対して、小林氏は論を構成してゆくのですが、今回の論-構成は、さほど 「捻 （ひね） られていない」 ので難しくない──というか、ほとんど 「当然なこと」 とさえ思えるほどの構成です。まず、「作品の出来栄え」 に関して、小林氏は以下のよう述べています。

　　　　「私の期待したものは作の出来栄えについての批評ではない」 と。
　　　　だが、作の出来栄えこそ作家の心を隅々まで語ってくれるものだ。
　　　　凡そ作品というものの唯一の興味はその出来栄えにある。世の中
　　　　を眺めて遙かに愉快で有益な事象が無限にある時、世人は ヘッポコ
　　　　小説を読む寛度を持たぬ。作品の出来栄えを最大の関心事としない
　　　　文士は、如何なる社会状態においても、文士たる存在理由はない
　　　　のである。

　　　　「私が今文壇を見ながら関心を持つのは、誰々が好い作を書いた
　　　　とか悪い作を書いたとかいうことではない。そういうことに全然
　　　　無関心でいるわけでは勿論ない。けれども、それよりも執筆家
　　　　──特に私と同業者である純文芸作家たちの生活が、今後どう
　　　　なって行くかということの方が、より強く私の胸に来るのである」
　　　　と。今日、かかる作家の実感を軽蔑するものはないだろう。今日
　　　　囂々 （ごうごう） たる社会と文芸に関する論争の根柢に横たわ
　　　　る実感だ。しかし、これは作家終局の問題ではない、作家のその
　　　　出発に際して戦いとるべき問題だ。私は、広津氏のこの実感が、
　　　　氏の長年の制作理論の結末として洩らされたものと信じたくない
　　　　のである。私は、氏の今度の一文において、この実感が、純正な
　　　　作家たる理論で、少しも積極的に語られていない事を遺憾に思う。

　以上の文で、小林氏は、「作品の出来栄え → 制作理論 → 作家の面貌」 というふうに争点を絞っています。そして、以下の文、

　　　　一体、作家の職業意識と制作意識との関係、芸術と生活との関係
　　　　は、これを辿って行けば思索と実行、精神と肉体との関係に、いよ
　　　　いよ酷似して、いよいよ困難な問題となる。広津氏の感想が、作者
　　　　の感想として、この困難な精密な領域まで這入って行かねばなら
　　　　ぬことは必定だと私は思う。この領域に関して、大作家で彼独特
　　　　の見解、確信を持たなかったものは一人もあるまい。少なくとも
　　　　近代文学が発生して以来、社会における己れの作家たる必然性
　　　　を、冷然たる自己批判をもって確信しなかった大作家は、一人も
　　　　いない。この確信の上に立って、最上級の制作をのこした後、
　　　　また冷然として文学に決別して実行に躍り込んだ ランボウ の
　　　　ような人もある。

　　　　近頃、知識階級の没落という事が喧 （やか） ましいが、知識階級
　　　　が没落なんぞされては堪らない。没落するのは なまけもの階級
　　　　だけである。知識階級の没落だとか スポオツ の階級性だとかと
　　　　堂々と論文が書けるようでは、学者も中々暢気 （のんき） な商売
　　　　止められなかろう。私は現代日本の なまけもの階級の存在は確信
　　　　しているが、知識階級の存在はあんまり確信していない。知識階級
　　　　の精鋭として、知識の演ずる悲劇を、情熱をもって歌った作家の
　　　　存在に至っては、もっと確信していない。アントン・チェホフ は、
　　　　亡び行く知識階級を描いた、という。しかしこの言葉は、多くの人々
　　　　の眼を掠 （かす） め去る一事実を秘めている。

　今回は、ここまでを範囲としましょう。
　上に引用した文で、小林氏は、「社会における己れの作家たる必然性 （すなわち、『作家の面貌 （もしくは、面目）』 あるいは 『作家の職業意識と制作意識との関係』」 を争点の核に据えています。そして、作家たる広津氏が 「文士の生活を嗤う」 という文を綴ったのであれば、当然、この点 （「社会における己れの作家たる必然性」 という困難な領域） に言及すべきだったと小林氏は非難しています。そして、たぶん、広津氏が通り一片に 「芸術と生活」 を論じたことに対して小林氏は怒っています。

　「社会における己れの作家たる必然性を、冷然たる自己批判をもって確信しなかった大作家は、一人もいない」 と小林氏は断言していますが、私は有島武郎・三島由紀夫を愛読してきて、二人とも、「社会における己れの作家たる必然性を、冷然たる自己批判をもって確信」 した作家だったと云っていいのではないでしょうか──ただし、二人とも 「作家たる必然性」 を考えた末に、作家であることを辞めたとも謂えるのですが、、、。ちなみに、広津氏の 「散文芸術の位置」 （大正 13年） は、有島武郎の 「宣言一つ」 （大正 11年） を巡る散文精神論争の一つとして提示されて、広津氏は以下のように意見を述べています。

　　　　散文芸術は、直ぐ人生の隣りにいるものである。右隣りには、
　　　　詩、美術、音楽というように、いろいろの芸術が並んでいるが、
　　　　左隣りは直ぐ人生である。（略） 人生と直ぐ隣り合せだという
　　　　ところに、散文芸術の一番純粋の特色があるのであって、それ
　　　　は不純でも何でもない。

　批評家として デビュー した広津氏は、このときには、作家として仕事をしていました。広津氏は、この文で記した意識を持っていながら、「文士の生活を嗤う」 では、どうして、この意識を追究しなかったのか、、、作家であることに対して自負を抱きながらも、作家の実生活的無能さに対して 「憤り」 を ぶちまけたのかしら──それとも、作家は、生活 （じぶんが帰属している環境） を写すように作品をつくらなければならない、とでも思っているのかしら。有島武郎氏は、晩年、そう思っていたようです。

　有島武郎氏は、以下の文を綴っています。

　　　　私は第四階級以外の階級に生まれ、育ち、教育を受けた。だから
　　　　私は第四階級に対しては無縁の衆生の一人である。私は新興
　　　　階級者になることが絶対に出来ないから、ならして貰おうとは思わ
　　　　ない。_（参考）

　　　　第四階級的な労働者たることなしに、第四階級に何者をか寄与
　　　　すると思ったら、それは明らかに僭上沙汰である。

　有島武郎氏が所有していた （北海道の） 農場を小作人たちに譲った [ 大正 11年 ] のは、「ブルジョワ 階級である自己を否定した」 がためのみではないと思う──かれ自身のことばで云えば、「夫れで私自身が何等労働するの結果でもなく小作人から労働の結果を搾取する事は私の良心をどうしても満足せしめる事が出来なかつた。で其の結果は私の文芸上の作品を大変に汚す事になり自己矛盾に陥つて苦んで来たのである。そこで私は私の土地を小作人達に与へたもので私としては、土地解放に依つて永らく悩まされて居た実際生活と思想との不調和より来る大煩悶から逃れたもの」 です。ここでの中核は、「其の結果は私の文芸上の作品を大変に汚す事になり自己矛盾に陥つて苦んで来た」 という文でしょう。そして、波多野秋子と心中自殺したのは、「理想と現実の矛盾の中で」 悩んだ末の行為ではなかったと思う──自殺する直前に、軽井沢の別荘に向かう列車のなかで、友人たちに宛てて綴った遺文を読めば 「敗北感」 など更々記されていないことがわかるでしょう。寧ろ、なにかの束縛から自由になったような感すらある。_（補遺）

　現代に生きる私が 「宣言一つ」 を読んで違和感はない──すなわち、かれは極々当たり前のことを 「敢えて」 宣言の形で ストレート に記したにすぎないと感じます。では、極々当たり前のこととは どういうことかと云えば、じぶんが関与していない状態に関して 「代弁する」 のは、「僭上沙汰」 だ、ということです。だから、かれは、クロポトキン も マルクス も 「第四階級」 を代弁したのではなかったと断言しています。「宣言一つ」 を読んで私は、かれの 「敗北感」 など皆目感じなかった。かれの考えかたで私が強く感じる特徴点は、「じぶんの意思で正当に掴得する」 ということが つねに基底にある点です。そして、「（欧米風の） justice」──特に、do oneself justice [ behave in a way that is worthy of one's abilities ]。

　作家としての かれの生活理論・制作理論を問うのであれば、「カイン の末裔」 「生まれいずる悩み」 「或る女」 という作品群の以後に、はたして、かれは どのような作品をつくることができたか、を問うべきでしょうね。「カイン の末裔」 にしても 「或る女」 にしても、「じぶんの感情に対して正直に [ 野性的に ] 振る舞った [ あるいは、逆に、社会のなかで、じぶんの座標 （生きる目標） を見いだせなかった ] 人間が、最後には破綻する」 という似たような テーマ を扱った 「悲劇」 です。それらの作品群で描かれているのは、小林秀雄氏の言を借りれば、「思索と実行、精神と肉体との関係」 です──そして、有島武郎氏は、つねに悲劇的な トーン で綴っています。逆に、社会の底辺で生きる労働者を テーマ にした 「かんかん虫」 においては、悲惨な生活状態を描きながらも、読後には、なにかしら、爽快感が遺ります。

　有島武郎氏の思想は、「ごった煮」 状態だった。当時の社会において、長男として生まれて家庭では 「儒教」 風の躾けを体験していただろうし、札幌農学校の学生だった頃には、新渡戸稲造・内村鑑三の影響をうけて キリスト 教に入信して キリスト 教思想と向きあっていたし、卒業後、米国に留学して欧米風の教育を体験してきたし、帰国後 [ ホイットマン に傾倒していましたが ]、社会主義に接近して信仰 （キリスト 教） を離れています。まさに、社会の動乱 [ 家制度・欧米化の波・社会主義の波 ] を個人の上に体験してきました。かれは、32歳のときに、作家として立ちました。これら [ 儒教思想 （家制度）・欧米思想・社会主義思想 ] が錯綜しながら、かれは作家として立って 「個性の育成」 を謳った。

　感覚が鋭い読者であれば、「生まれいずる悩み」 「カイン の末裔」 を読んだときに、作家のゆく末を案じるかもしれない──たとえ、作家がいっぽうで、「個性の育成」 を謳っていたとしても。「個性の育成」 が社会とぶつかることくらいなら、当時の社会常識を持っていた社会人であれば感知していただろうし、作家の主調音 （生活理論・制作理論） を丁寧に聴けば、ひょっとしたら、作品のなかに、作家の [ 作家であることの ] 悲壮感・悲劇性を感じていた文学愛好家もいたかもしれない。「白樺派」 の作家のなかで、「社会と個人」 を テーマ にして戦った作家は、武者小路実篤氏と有島武郎氏ですが、武者小路実篤氏は 「個性の成長と社会は矛盾しない」 と考え、有島武郎氏は、個性を謳いながらも、その破綻を強く感知していたのではないかしら。有島武郎氏の作品を現代に生きる私が読んで ワクワク する理由は、かれが実生活で感じていた 「知識階級の悲哀」 を帯びているからではない──作品の主人公が 「じぶんの座標 （個性を活かす場所） を見つけられないで、破滅してゆく」 有様に惹かれるからです。そして、それらの作品において、かれの文体は、欧米風 （翻訳っぽい？） で独特な筆致です。「カイン の末裔」 「或る女」 の終末は、まるで映画を観ているかのような生々しい影像が浮かぶ筆遣いです。

　


（参考）
「第四階級」──労働者のこと。中野秀人氏の評論 「第四階級の文学」 （大正 9年） は、「文学の階級性」 を着目して、「第四階級」 を除いて文学の進むべき道はないと論じています。ただし、中野秀人氏は、「第四階級の文学は労働者自身によって企てられるものだとは限らない」 と謂っています。そして、有島武郎氏の 「宣言一つ」 は、中野氏の見解に対して否定的に応えています。有島武郎氏曰く、

　　　　したがって私の仕事は第四階級者以外の人々に訴える仕事として始終する
　　　　ほかはあるまい。世に労働文芸というようなものが主張されている。また
　　　　それを弁護し、力説する評論家がある。彼らは第四階級以外の階級者が
　　　　発明した文字と、構想と、表現法とをもって、漫然と労働者の生活なるもの
　　　　を描く。彼らは第四階級以外の階級者が発明した論理と、思想と、検察法と
　　　　をもって、文芸的作品に臨み、労働文芸としからざるものとを選り分ける。
　　　　私はそうした態度を採ることは断じてできない。

　小林秀雄氏なら、この文を読んで次のように謂うでしょうね。

　　　　なるほど正義の情熱はこの一文に漲 （みなぎ） っているが、重要なものは
　　　　作家たる情熱の明らかな像ではないのか、面目ではないのか。

　小林秀雄氏の眼から観れば、文学を社会の階級制に単純に対応することは、文学固有の法則を無視した──したがって、作家の存在価値を否定する──理屈にあわない図式にしか見えないでしょうね。実際、有島武郎氏は、もう、この時点で、作家ではなかった [ 作家を辞めた ] と私も思います。

　
（補遺）
　有島武郎氏は、自殺する 2日前に、親友の足助 （あすけ） 素一氏に以下のように述べたそうです。

　　　　実は僕等は死ぬ目的を以て、この恋愛には入つたのだ。已に秋子は船橋で
　　　　死を迫つたが、、、。僕は全く行き詰まつたんだ。僕の面前は真っ暗なん
　　　　だ。子供だつてどう養育すべきかも分らないし、僕のやうなものになつて
　　　　はおしまひなんだから、、、。僕は新興階級には無縁の衆生だ。生まれ
　　　　代つて来ない限り、第四階級に力を合はすことは出来ない。僅に、僕が働
　　　　き得るのは第三階級にだが、第三階級は早晩滅亡するのだ。僕の力は
　　　　その崩壊の為に働くものには死滅のみが残されてゐるんだ。

　この文のみを読めば、かれが じぶんを 「滅びゆく階級」 のなかにいる絶望感を述べていているように想像できますが、かれが作家として創作力の枯渇を感じていたのは、「或る女」 を発表した頃 （大正 9年） です──以後は、童話や短篇がほとんどです。

　正宗白鳥氏は、有島氏の没後、「或る女」 を以下のように批評 （激賛） しています。

　　　　その豊富なる芸術的天分、弛みのない鍛錬された文章、外面的にも内面的
　　　　にも人間を見る目の微細に的確なところ、日本の作家には類例がないと思
　　　　ふ。私は読みながら及び難しとの感じにいく度打たれたか知れない。

　有島氏は、「或る女」 を発表したあとで、作家として かれの最大の性質 （特性） を刻む作品を執筆できなくなったようです。言い換えれば、社会のなかで作家であった かれは、この時点で、作家としての座標を喪った。その数年前 （1917年頃、39歳の頃）、かれが作家として文壇の地位を確立したときには、かれは、最晩年のときほどに、「第三階級」 であったことを苦悩していない。階級闘争が作家生命を奪ったのではなくて、作品を書けなくなってきたときに、階級闘争が絡んだと考えるほうが妥当だと私は思います──「個性の育成」 を謳った作品 [ [社会のなかで個性（あるいは、本能的生活） の座標をとれなかった」 悲劇を描いた作品 ] を書けなくなった頃に、労働者としての個人が 「階級闘争」 として社会を変える運動が強くなってきたし、「知的生活」 に対して かれが示した 「本能的生活 （あるいは、自由意志）」 （「惜しみなく愛は奪う」 のなかで示された考えかた） が 「階級闘争」 という運動と相容れるとは私には思えない。そして、かれが社会において座標を喪ったときに、波多野秋子さんとの恋愛が生じた。波多野さんのほうが、かねてから 「心中」 を願っていたようです。社会のなかで座標を喪ったときに 「死を覚悟した愛」 が純粋であることは、有島氏が、自殺に向かう列車のなかで記したとおりでしょうね。 　　　　

　
　（2010年 2月 1日）