小林秀雄氏は、かれの批評文 「横光利一」 のなかで、作品に対する 「分析のしかた」 ──「かれの」 分析のしかた──を見せてくれています。その批評文は、以下の文で書きはじめられています。
横光利一氏の 「機械」 (「改造」 九月号)、私はこれについて、
先月号で色々な事を書きたかったが、発熱で頭がほてって来て、
どうにも法がつかなかった。とこんな前置きを書かなくてもいい
のだが、私にはいかにも口おしかったのだ。私にはその当時、もう
この作に対する人々の正面切った批評は大概見当がついていた。
そして一方裏道から一途 (いちず) にこの作者の心を思って
切なかった。今、「機械」 に関する穏やかな理智と友情とを織り
込んだ人々の批評を読み、それを反駁しようとも思わぬし、また、
間違っているとも思わぬが、私にはただ味気なく素気 (そつけ)
ない。
人々は、この作に新しい試みを見たはずだ。これは一目瞭然の事
である。この作品の手法は新しい。それは全然新しいのだ。類例
などは日本にも外国にもありはしない。と言う意味は、そこに
立っているのは正しく横光利一だという事だ。抜き差しならぬ
横光利一が立っている。
(略) 作家にあって熾烈な野心が純粋な作品を生む事は、容易な
事ではない。事実、氏はこの容易でない事のために非常に多くの
失敗作を持っている。ところが、「機械」 は例外な場合なのである。
これは第二の 「日輪」 だ。
そして、小林氏は、「機械」 を分析して批評し、以下の文で、批評文を終えています。
私はもうこれ以上を語るまい。
「機械」 は信仰の歌ではないとしても、誠実の歌である。そこに
は人間の誠実の正体が痛烈に描かれている。作者は誠実を極限
まで引張って来てみせた。世人の誠実とは何物でもない。世間の
誠実で己れの誠実に不潔な満足を感じていない誠実は一つもない
のだ。「私」 という人物の誠実は、己れに何んの満足も感じない
で死んでしまう誠実だ。最後に誠実は助けを求めているではないか。
横光氏は、今日私が悲劇的という言葉を冠し得る唯一の作者で
ある。氏は自身の不幸しか噛んで来なかった。氏は常に動揺する
叙事詩人であったとともに不幸を計量する叙情詩人であった。
氏の彩色は、梢 (こずえ) に開いた花に過ぎぬ。氏の持つ逆説家、
心理家に至っては散りこぼれた花びらに過ぎぬ。
私は氏の深い愁い顔をよく知っている。
さて、私 (佐藤正美) は、ここで、小林秀雄氏が 「機械」 について どのような批評を綴ったのかを述べるつもりはなくて、私の興味は、小林氏が 「どのようにして作品を分析しているのか」 という点に向かっています。まず、上に引用した文を読めば、小林氏は、「機械」 を書いた──あるいは、書かざるを得なかった──横光氏の 「作家としての面目 (生活理論)」 を中核に置いています。そして、上に引用した文 [ 序文と結論 ] とのあいだで、小林氏は、横光氏の (「機械」 で見せた) 制作理論を検討しています──そのときも、小林氏は、横光氏の 「日輪」 を先ず対象にして、以下の文を綴っています。
自意識の勝った優れた作家の制作の系列を眺める時、生涯の若々
しい時期に、決定的な制作を発表しているのがしばしば見られる。
処女作にすべてがあるという言葉は弱々しい。凡庸な作家でもその
処女作にすべてがあろう。そうではない。自身の特異性をはっきり
見定めた歌、己れの独自の象 (かたち) の発見の退引きならぬ
定着があるのだ。横光氏にとって、この作品が 「日輪」 だ。この
極度に圧搾 (あつさく) された絵模様に何んの発見があったか。
それは眼の発見であった。(略)
そして、小林氏は、「日輪」 を書いたときの横光氏の制作理論を以下のように まとめています。
「日輪」 は自身の眼の讃歌である。このとき氏は、(略) 遙かに
咳 (せ) き込んで呟 (つぶや) いた。「私とは、ただ自らにとって、
外界だけが存在する態の一存在である」 と。
ここに氏の不幸が始まった。いわゆる新感覚派文学運動なるもの
が氏を取巻いて起った。それは若年の模倣者の追従口 (ついしよう
ぐち) と、「しみじみ」 とか 「つらつら」 とかいう味の好きな大人ども
の、大人気ない反感とで大変賑 (にぎ) やかであった。以来氏は
自分の眼の理論にいそがしかった。氏の眼が次々に織り出す生硬に
光を揚げる彩色は、人々の眼から (この彩色に酔う眼からも酔わぬ
眼からも) 氏の心情をかくしてしまった。「花園の思想」 は、この消息
を語る重要な作であり、また、氏の眼の理論の頂点を語る名作で
ある。
そして、「機械」 について、
「蟻 (あり)、台上に飢えて月高し」。長い道であった。「機械」 の
の輝やきはこの長い道の輝やきに外ならぬ。
希望は華やかな幻だ。華やかに心を捕らえるから希望は新しい作を
齎 (もたら) すようにみえるのだ。しかし糸を引く手は過去にある。
過去だけが動力だ。作品は人が知ろうと知るまいと伝統の上に咲く
花だ。創作とは人間の一種の記憶術である。作品に明瞭な統一性
などというものはありはしない。あれば機械だ。作品ではない。
作品の背後には、いつも生きた人間が立っている。生きた人間の
明瞭性とは、ただそこに立っているという事だ。これは同時に大変
不明瞭な事である。この立っている人間を一わたり明瞭に想像させ
てくれるのが、作者の術である。そしてこの術の糸引くものは、──
止そう。
ここで、小林氏は作家の生活理論をたぐり寄せています。そして、以下の 「名文」 が綴られています──私 (佐藤正美) が 「名文」 と思ったということ。
幾多の計り知れない暗面はもっているが、この世は機械である。
機械以外のものでない。かような信条は、幾多の最上小説家の
核心に存した。小説家の心とは、このような壮大なまた索然と
した事実への凄 (すさ) まじい好尚であると言っていい。
小説家は出来るだけ己れの姿をかくす。彼は世のからくりを
眺める以外にどんな思想も信じない。作中人物の思想は作中
人物の思想に過ぎぬ。かような意味での小説家に機械なる標題
は無用である。比喩に過ぎない。横光氏の 「機械」 の場合は
事情がまるで違っている。この場合、「機械」 という名は氏の
心に対して、全く象徴的な意味を持っているのだ。
(略) 作者はこの作品で、新しい心理の取扱い方だとか、文体の
改変だとかと、ちっとも周章 (あわ) ててやしない。作家たる覚悟
を語っているのである。
そして、「機械」 で作家が綴った ぬきさしならぬ覚悟を小林氏は以下のように まとめています。
「私」 はただ生きて行くために、己れの無垢を守らねばならぬ。
「私」 という言わば非存在的な存在を、この世で取り扱うため
には、これを無垢と象徴しなければ支え切れないのだ。
小林秀雄氏の批評は、作品の テーマ・構成・文体 (制作理論) を解析したあとで、かならず、作家の眼 (生活理論、人生観) を探って、そして、作家の眼から作品を再度見つめ直しているという点が特徴ではないかしら。作品の テーマ・構成・文体 (制作理論) を 「記号の操作技術」 とすれば、構文論とみなしていいでしょうし、作家の眼を 「記号と事実との対比 (事実を観るときの作家の視点)」 とすれば、意味論とみなしていいでしょう。そして、作品の構文論 (作品の テーマ・構成・文体) を評して コメント を綴る批評家は多いけれど、意味論を扱うに腰が引けている批評家が多いなかで、小林氏の批評が──その文体と相まって──異彩を放っているのでしょうね。逆に言えば、作家の生活理論が掴めない作品を かれは批評の対象にしなかったのかもしれない──たとえば、三島由紀夫氏の作品。小説に限っていえば、作品は、人間の生態を──行為のなかに隠された本性であれ、そうあってほしいと希う理想であれ──作家の仮構のなかで描くのであれば、人間生活を作家の生活理論 (作家の眼) で再現した構成物なのだから、「作家の眼」 を外した批評は、作家以外が施した 「注釈」 にすぎないでしょうね。小林氏流に言えば、「味気なく素気ない」・「呑気な」 コメント にすぎないのかもしれない。
じぶんが選んだ テーマ を じぶんの構成のなかに託したら、文体は自ずから出てくるでしょう──小林氏は、かれの他の エッセー のなかで以下の文を綴っています。
現実といふものは、それが内的なものであれ、外的なものであれ、
人間の言葉というようなものと比べたら、凡そ比較を絶して豊富
且つ微妙なものだ。そういう言語に絶する現実を前にして、言葉
というものの貧弱さを痛感するからこそ、そこに文体というもの
についていろいろと工夫せざるを得ないのである。工夫せざるを
得ないのであって、要もないのにわざわざ工夫するのではない。
すなわち、文体 (制作理論) の前に作家の眼 (生活理論) があるということ──「作家の眼」 のほうで観る [ 構成する ] ことを小林氏は、「搦手 (からめて)」 とか 「裏道」 と謂っていますが、私には、これこそ批評の 「正道」 に思われるのですが、、、。私が小林氏の批評を好む理由は、まさに この点にあります。作品を構文論のみで評している人たちに対しては、「では、あなたが書いてみてください」 と皮肉の一つでも謂いたくなります──どうせ、じぶんの生活を抵当に入れて書く覚悟はないでしょう。
(2010年 2月23日)