小林秀雄氏は、「批評家失格 T」 という アフォリズム 集を 「新潮」 (1930年11月) で綴っています。その アフォリズム 集のなかから、私の気になった断章を いくつか選んで、今回から しばらくのあいだ、「反文芸的断章」 の テーマ にします。まずは、「批評家失格 T」 で最初に置かれた断章から。
陰口きくのはたのしいものだ。人の噂が出ると、話ははずむ
ものである。みんな知らずに鬼になる。よほど、批評はしたい
ものらしい。
面と向って随分痛い処を言ったつもりでも、考えてみれば
きっと用心してものを言っている。聞いてもらう科白 (せりふ)
にしてものを言っている。科白となれば棘 (とげ) も相手を
傷つけぬ。人の心を傷つけるものは言葉の裏の棘である。
そして、以下の アフォリズム が続いています。
陰口では、人々はのうのうとして棘を出し、棘を棘とも思わ
ない。醸 (かも) し出されるきたならしい空気で、みんな
生き生きとしてくる。平常は構えてきれい事に小ぢんまりと
蒼ざめた男が、ふと、なまなましい音をあげたりする。そんな
時、私はなるほどと、きたならしさに心を打たれる。このきた
ならしさを忘れまい。これは批評の秘訣である。
そして、続いて、
人の噂を気にするな、と。人の噂を気にする奴に、噂は
決して聞こえてこない。自分の心をしゃっちょこばらせ、さて
噂を聞こうは図々しいのだ。ふと耳に這 (は) 入 (い) った
陰口に、人は ドキン とするがいい。
自分の心に自分でさぐりを入れて、目新しいものが見つ
からぬと泣き事を言っても始まらない。凝 (じ) っと坐って
一日三省は衛生にいいだけだ。分析はやさしい、視点を
変える事は難かしい。
私 (佐藤正美) は、書物を読んでいて気になった文に対して下線を引くのですが、上の引用文──「批評家失格 T」 の冒頭に置かれている断章──を読んだときに、下線を引いていない。言い換えれば、上の引用文は、私に対して seminal な文として作用しなかったということ。では、私は、上の引用文を どうして今回 テーマ にしたのかと問われれば、それらの断章が小林秀雄氏の批評法を暗示していると思われるので、「批評家失格 T」 を対象にするのであれば、外す訳にいかない。上の引用文は、「陰口」 を材料にして、小林秀雄氏は、自らの批評法 「搦め手」 を暗示しています。
小林秀雄氏の ファン でなければ、上に引用した文を ほとんど読み流すでしょうね──「なるほど、『陰口』 は、それを言ったひとの本音がでるので、愉快・痛快だ」 と思うくらいでしょう [ そして、その読みかたに間違いはないのですが ]。小林氏の ファン ならば、上の引用文を読んで、「陰口」 を材料にした着想を 「なるほどなあ」 と感嘆しつつ、以下の ことば を見落とさないでしょう。
批評はしたいものらしい。
聞いてもらう科白にしてものを言っている。
きたならしさに心を打たれる。
分析はやさしい、視点を変える事は難しい。
「聞いてもらう科白にしてものを言っている」 という文は、「一般の (当たり障りのない、型どおりに綴られた)」 批評に対する非難なので外していいかもしれない──そして、他の 3つの文をつなげてみれば、「批評するというのはひとの本性であって、的を射った批評というのは (科白でない) 生々しい評になるが、そういう評は、しゃっちょこばった分析では出てこない」 というふうな趣旨になるでしょう。
そして、批評の対象になっている人物のほうでは、その人物の性質であって、その人物が自ら気づいていない点を すっぱ抜かれたら、「ふと耳に這入った陰口に ドキン とする」 でしょう。それが小林氏流の 「搦め手」 ということ。ただし、それは、批評の対象になっている人物を客体化した・しゃっちょこばった分析にはできるはずもないのであって、視点を変えなければならない──視点を変えるというのは、批評の対象になっている人物の視点 (生活理論・制作理論) に立つということ (「搦め手」、すなわち 「生け捕り」 にするということ)。そして、「視点を変える事は難かしい」 と。ただし、視点を変えることができなければ、批評家失格ということです。
(2010年 3月 1日)