このウインドウを閉じる

Whichever one of you has committed no sin may throw the first stone at her. (John 8-7)

 



 小林秀雄氏は、「批評家失格 T」 のなかで、以下の文を綴っています。

     毒は薄めねばならぬ、批評文とは薄めた毒だ。──サント・ブウブ
     誰でも、心の底には、凄まじい毒をおしかくしている。どんな心
    にも百年の恨みは潜 (ひそ) もう、命知らずの情念 (なさけ)
    は棲 (す) もう。ただ、理智が浮世の風に乗ってこの毒に絶えず
    水をさす。生まのままの毒は他人の判断を借用する暇をもたぬ。
    息せき切った判断が、たまたま的を射抜く時、これほどあやまたぬ
    判断はない。
     毒は薄めねばならぬ。だが、私は、相手の眉間 (みけん) を割る
    覚悟はいつも失うまい。

 上に引用した文のなかで、私は、かつて、「批評家失格 T」 を読んだとき、「相手の眉間を割る覚悟はいつも失うまい」 という文に (鉛筆で) 下線を引いていました。下線を引いていたということは、私に対して、なんらかの興味を起こしたということです。その興味が、小林氏の批評態度を示した文だという点にあったのか、それとも、私が批評をする場合に、そういう態度でいたいという気持ちを代弁した文だったのか を思い起こすことができないのですが、たぶん、それらの二つが混ざっていたのだと思います。

 「相手の眉間を割る」 批評というのは、よほどの覚悟がないとできないでしょう──批評は、たいがい、小林氏の謂うように、(理智が浮世の風に乗って) 「毒を薄めた」 状態になるでしょうし、「他人の判断を借用する」 ことも多いのではないかしら。私の著作が ウェブ で色々と批評 (非難?) されているようですが、それらの批評を読んだ人たちから私が聞き及んでいる点では──したがって、私が直接に それらの批評を読んでいないので、私が聞き及んでいる点が 「正確な」 引用かどうかわからないのですが──私に対する批評 (非難?) も、「薄められた毒」 にすぎないようです。したがって、私は、それらの批評 (非難) を耳にしても、(前回引用した小林氏の言を借りれば、) 「ドキン としない」。

 他の人たちの著作のことは想像できないのですが、私の著作に限って謂えば、それぞれの著作には、かならず、「触れてほしくない 仕残し (書こうにも書けなかった思考の 「空白」)」 が認められます──著作を注意深く読めば、それを感知できるでしょう。しかも、厄介なことに、その 「空白」 は、著作の テーマ のなかで中核になっていて、ただただ渦巻いているだけの ブラックホール です。その ブラックホール に言及されることは 「眉間を割られる」 ことに等しい。正直に言えば、私が聞き及んでいる批評のなかで、「赤本」 に対する批評で (2 チャンネル に書き込まれていたそうですが) 1つだけ 「眉間を割る」 批評があったことを私は認めます。そういう批評は、(拙著を録に読み込んでもいないで、上っ面で ああだこうだと言い散らしている思いつきの当てずっぽうなんかに比べて、) 「ドキン とする」 と同時にうれしい──というのは、そこまで テーマ を把握してもらっていることがわかるので。

 私は、批評される側に 20年近く立ってきて、最初の 10年くらいは、批評が気になりましたが、「論考」 を出版した頃 (2000年) から、批評を ほとんど気にしなくなりました。というのは、批評のほとんど すべてが 「的を外している」 から (笑)。言い換えれば、私を嫌う人たちが集まって、「ね、ね、あいつは (われわれと同じ意見じゃないから) 気に入らない奴だよね」 と謂う程度の 「毒にも薬にもならない」 雑言にすぎないから。猿の集団が、じぶんたちと違う動物が近づいてきたので、その動物に向かって皆で石を投げている図に等しい。
 勿論、賛辞についても、同じです。体 (てい) のいい賛辞 (御世辞および盲信) など うれしくもない [ 寧ろ、不快です ]。

 私は批評を嫌っている訳じゃない、批評を歓迎します──ただし、「眉間を割る」 ような批評のみを。

 
 (2010年 3月 8日)


  このウインドウを閉じる