小林秀雄氏は、「批評家失格 T」 のなかで、以下の文を綴っています。
もし人間の精神が、人間共有の物差に過ぎぬのなら話は楽
だ。だが精神とは、われわれの頭の中に棲んでいるやっぱり
心臓をもち、肉体をもったもう一つのわれわれだ。精神が物差
になる時は、この分身が退屈な一役を振られたに過ぎぬ。
*
その退屈な一役こそ、肝腎要 (かんじんかなめ) の立役
(たちやく) だ。将来の文芸は科学的でなければならぬ。
独創とは感情の誤算に過ぎぬ。ああ助かるよ、浮世は さば
さばするだろう。
*
よく冠履顛倒 (かんりてんとう) の論文を読まされる。
しまいの一行を真っ先に書いてくれれば、読者の労は省け
るものを。一行で書けるところを十行に延ばす才能をもった
人は、どんな結論が出来てくるかわからない思索の切なさ
を知らぬ悧巧ものである。冷静に思案するは易い、感動し
ながら思案するは難い。
*
作品から思想ばかりを血眼になってあさっている態 (てい)
の評論は、見た眼がどんなに痛烈にみえようが、所詮 (しょ
せん) お上品な仕事だ。作者の臭いとこにも痛いとこにも
触れはしない。骨のある作家なら舌を出す。「私は、手袋を
はめた手で、仕事をいじられたかない」
小林氏は、上の文で、批評家が対象にしているのは 「精神」 であること──作家の 「精神」 であり、批評家の 「精神」 であり、読者の 「精神」 であること──を確認しています。そして、「精神」 は、たしかに存在するけれども、それを定規 [ 科学的法則 ] で計量できないことを確認しています。これくらいの評ならば、われわれ シロート [ 職業的評論家でない文学愛好家 ] でさえ言い得ることです。小林氏は、プロフェッショナル な意識として、作家の 「精神」 に批評家が到達するためには、批評家は作品を読み込んで、じぶんの 「精神」 が作品に揺さぶられながらも、いっぽうで、じぶんの思考を貫かなければならないことを確認しています [ 感動しながら思案するは難い ]。小林氏が 「アシル と亀の子 U」 で綴った以下の ことば を思い起こしてください──「作家にとって作品とは彼の生活理論の結果である。しかも不完全な結果である。批評家にとって作品とは、その作家の生活理論の唯一の原因である。しかも完全な原因である」。そういう絶望的な状態のなかで、批評家は、作家自身が持てあましている 「精神」 を狙い撃ちしなければならない。そういう覚悟のない、そして、そういう接近法を すっぽかした批評は 「上品な仕事」 にすぎない──すなわち、小手先の批評であって、作品に対峙した批評ではない──と小林氏は揶揄しています。
(2010年 4月 1日)