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The Kingdom of God does not come in such a way as to be seen. (Luke 17-20) |
小林秀雄氏は、「批評家失格 Ⅰ」 のなかで、以下の文を綴っています。
批評家が、作家の私生活の端くれを取り上げて、真顔に 「アシル と亀の子 Ⅱ」 のなかで小林氏が綴った 「三木清氏へ」 という評論を、かつて、「反文芸的断章」 で説明したときに、私は、上に引用した アフォリズム と似た感想を綴っているので、ここでは、この アフォリズム に対する私の注釈を再録しないでおきます。 この アフォリズム は単独では、「眉間を割る」 ような箴言ではないのですが、この アフォリズム の前後に綴られた アフォリズム の配列のなかで読めば、俄然、生き生きとしてきます。この アフォリズム は、以下の ふたつの文のあいだに置かれています。 [ 先行する文 (前回の 「反文芸的断章」 で引用しました) ]
作品から思想ばかりを血眼になってあさっている態(てい) [ 後続する文 ]
「理窟はどうにでもつく」、この言葉を会得 (えとく)するのは 「作品から思想ばかりを血眼であさっている態」 というのは、作品を一言で特徴づける クラス 概念──あるいは、「主題 (テーマ)」──を探している所作でしょうね。「主題と構想」 は、たしかに、小説の要件ではあるけれど 「鉄骨」 であって、その構想のなかで、作家が作品を生むために注いだ息吹ではない。「構想」 も文体のなかの ひとつの エレメント ではあるけれど、作家の息吹を示す文体の中核は──作家の個性を示すのは──、用語・措辞にあると云っていいでしょう。作家の使った文体は、「作家の眼」 を表しているはずです。それがない小説はないし、作家の文体 [ ひいては、作家の眼 ] を外した批評は批評にならないでしょう。事態に対して様々な見かたをできるけれど、作家は、それらの見かたのなかから或る見かたを選んで思考して具体化した、というのが文体でしょうね。したがって、その文体を対象外にして、作家の 「思想」 をたぐることなどできないはずです。そして、文体は──しかも、「理智を駆使した」 文体は──、現実的事態に対して爪痕ひとつ付けることはできない──それが 「理窟はどうにでもつく」 ということでしょう。「犬の川端歩きよろしくだ」 は、「私は、手袋をはめた手で、仕事をいじられたかない」 と同値文でしょうね。 小説の文体を 「社会 (あるいは、生活とか人生)」 との交信のなかで考えるか、それとも、「作家の頭 [ 才識 ] のみ」 で産み出すかをべつにしても、作品を彫った文体を軽視して、作家の私生活を覗いて作家の 「思想」 のみをあさっている態の批評は批評じゃないでしょうね──なぜなら、作家の思考を度外視してしまっているから。さて、「反文芸的断章」 を読み続けてくださった読者は、私の この文を読んで、私が 「反文芸的断章」 のなかで以前に綴ったことを思い起こして、或る点を気づいたかもしれないですね。そう、小林秀雄氏の批評の やりかた と三島由紀夫氏の小説の作りかたは、ふたりの気質が非常に違うのですが──だから、小林氏は三島氏の作品を 「金閣寺」 以後読んでいないと謂っていましたが──とても 「似ています」。私が三島氏の作品を読んで感じた印象では、三島氏のほうが小林氏の作品を読み込んでいたと思います。いずれにしても、「私は、手袋をはめた手で、仕事をいじられたかない」 というのが作家の気持ちでしょうし、そういう仕事をしたかないというのが小林氏の所信でしょうし、小林氏の評論が小説の風下に置かれなかった強みでしょう。 |
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