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...with great difficulty came to a place called Safe Harbors (Acts 27-8)

 



 小林秀雄氏は、「批評家失格 T」 のなかで、以下の文を綴っています。

     「他人に意見するような気楽な身分になってみたい」、
    ずい分といじめつけられた感慨だ、惟 (おも) うに批評の
    極点である。こんな日を過ごした人は過ごした人だ、知ら
    なかった人は知らなかった人だ。どうやら前世の約束事
    みたいに区別がある。人は苦労している時だけ批評の
    極点をさまようものだ。

                      *

     「犬も歩けば棒にあたるそうだ」 「そりゃあそうでしょう
    ともね、あたりますよ、そりゃあ」 と彼は答えた。ここにも
    批評の困難がある。

                      *

     困難々々とよほど困難の好きな男だ、やさしい事が
    つまらなくなって難しい事が面白いなんて地獄だぜ、
    元も子もすっちまうのも知らないでさ。

 これらの文の意味を掴むのは、とても難しいのではないかしら──少なくとも、私には難しかった。これらの文は、「批評家失格 T」 のなかで一番はじめに綴られた断想 「陰口きくのはたのしいものだ」 と呼応していると思います。

 「前世の約束事みたい」 という意味は、「運命」 ということで、そのひとの 「性質」 である、と 「解釈」 していいでしょう。すなわち、「こんな日を過ごした人は、そういうふうになった理由が、その人の性質にある」 と。そして、小林氏は、じぶんが そういう性質であることを吐露している。

 さらに、この文の中核である 「『他人に意見する』 ということは批評の極点であるが、批評の行為ではない」 という暗示があると私は思います。「いじめつけられた」 という文は、受動態になっていて、「だれに (あるいは、なに-に)」 を明言しない文になっています──それを、小林氏は 「意図的に」 綴ったと思います。言い換えれば、この文は、主体が じぶんであって、だれが (あるいは、なにが) じぶんに対して そうしたかを論点にしていない──あくまで、そういうことをやるようになった性質をもった 「じぶん」 が論点になっています。そして、この文が 「苦労している時だけ批評の極点をさまよう」 に対応しています。「苦労」 とは、「必死になって考える」 と同値と思っていいでしょう。その苦労を、小林氏は、次の文 「犬も歩けば棒にあたるそうだ」 で示しています。

 「犬も歩けば棒にあたる」 という ことわざ を かれが使った理由は、古い時代から人々のあいだで言い習わされた教訓・風刺を──人生の 「真実」 を穿つ法則として──「そのまま」 聴納している人とのあいだには、批評は成立しにくい、という点にあるのでしょう。「犬も歩けば棒にあたる」 ということを 「最初に気づいて文にした」 ひとは、見事な批評家だったけれど、その文が そのまま 「法則 (公式)」 として流通し定着した状態のなかで、「犬も歩けば棒にあたる」 という事態を だれが (どれほどの人数が) 原点に遡って験証したか、、、。

 小林氏は 「困難」 という語を使って、(「困難」 が往々にして暗示する) 「複雑」 という語を使っていない。そして、「自明の法則」 として継承されているような 「やさしい事」 (公式主義) がつまらなくなって、「やさしい事」 を構成している 「語りがたい事」 を語ろうと努力したり、「表しきれない事」 を表そうと努力したり、つねに 「難しい事」 に直面し続けることを かれは じぶんの課題──すなわち、批評家の課題──として暗示しています。そして、「難しい事」 を 「解析」 して、必死に考えて、「解析」 の末に、もう これ以上に 「解析」 できない概念 [ つまり、既知の事柄に帰着せざるを得ない概念・物 ] に至っても、見えて来たのは、元の [ あるがままの ] 事態 (「やさしい事」) を超える訳じゃない。「解析」 は、現実に対して爪痕すら付けることはできない──では、興味を抱いておこなった・困難な 「解析」 は、いったい、「批評」 として、対象の正体を明らかにしたのか、、、そんな 「難しい事が面白いなんて地獄だぜ」、じぶんの思考の航海のために、じぶんの生活を抵当に入れて船出しても、嵐の航海のなかで難破して 「元も子もすっちまうのも知らないでさ」。

 「批評家失格 T」 を読んで、そのなかの難しい文を はしょっても、小林氏の 「思想」 を大掴みにすることはできるでしょう。今回に引用した小林氏の文が難しければ、それらを はしょっても、小林氏の作品に対して、いっぱしの批評を述べることはできるでしょう。でも、そういう読みかたは、小林氏の作品を読んだことにはならないでしょう。そして、そういう読みかたをして、小林氏の作品を批評している連中が多いことを私は観てきました。しかも、そういう連中の大雑把な批評は、「説似一物即不中」 であっても、外れてはいない、というのが批評において厄介な点なのです。というのは、「概念」 は広ければ広いほど、対象を包括するから。「人間って、飯喰って、ウンコ するんだよね」 「そうそう」、それは確かに間違ってはいないが、「批評」 でないことも確かでしょう。

 
 (2010年 4月16日)


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