小林秀雄氏は、「批評家失格 T」 のなかで、以下の文を綴っています。
歌は人を傷つけぬ。批評は人を傷つける、いや傷つける
振りをする。「自分のことは棚に上げて何だ」、言いさかい
は棚に上げっこだ、自分を棚に上げれば上げるほど、相手の
上げてるのが眼につく。口論はこの領域に最も繁栄する。
しかし、自分を棚に上げなければ批評文は出来上らない。
自分を棚に上げるとは、つらい批評家の商法だ。これをつら
がるに準じて批評というものは光るものであるらしい。やり
切れない事実である。こいつなかなかつらがれないものだが、
また読む方だってつらがっている処はなかなか見破りはせぬ。
批評文に対して、人々は知らず知らずに白眼をつかう。喧嘩
腰で読む格だ。
自分の事を言われて自分の事しか考えない人は、馬鹿で
なければ傑物だ。
この批評文の主要概念が示されている文は、「これをつらがるに準じて批評というものは光るものであるらしい。やり切れない事実である」 という文でしょうね。批評は辛い──批評されるほうも、そして、批評するほうも。小林氏が綴っているように、批評するほうは、自分を、いったん、そのままにしておいて、自分のことには言及しないで相手を批評しなきゃならない。「他人を どうこう言うのは好きじゃない」 とか 「他人を傷つけたくない (他人の自尊心を損ねたくない)」 という ひとは、批評などしないでしょう。そして、もし、そういう意識を持っている ひとが、ぬきさしならぬ理由で批評しなければならないとしたら、辛いにちがいない。その辛さを回避したいのであれば、文芸時事評を離れて、古典を批評対象にするしかない──そして、古典を批評の対象にすれば、おのずと、批評は、自分と肌のあう古人を探して、古人に共感を抱いて対話する形になるでしょう [ あるいは、招魂か ]。古人の記した作品を読んで、現代にいる自分に通じる性質を観取して、古人が現代人の性質をもっていた点 (その時代に先立つ意識を持っていた点)──したがって、当時では、世間で承認されなかった点──を批評する やりかた になるでしょう。そのときでも、批評は、自分に向かっている、というのが批評の宿命でしょうね。
批評というのは、批評する概念が広ければ、たいがい──そして、術語を使えば、なおさら──、だれでも思いあたるふしがあるので、かならず、批評したほうにも返照する性質を帯びています。そして、その 一般的な批評を掘り下げて 「眉間を割る」 特質を与えれば、批評しているほうも辛いにきまってる。しかし、たいがい、批評を聴いている人たちは、その辛さを気づきはしない。そして、批評に対して 「人々は知らず知らずに白眼をつかう。喧嘩腰で読む格だ。自分の事を言われて自分の事しか考えない人は、馬鹿でなければ傑物だ。」──「反 コンピュータ 的断章」 (4月16日付) のなかで言及した 「私の批評を白眼で見た」 若い女性が 「傑物」 だったとは思えない。 私は、セミナーのあとで、いつも、自己嫌悪に陥るのですが、当然の報いでしょうね。
(2010年 4月23日)