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for anything that is clearly revealed becomes light. (Epheslans 5-14)

 



 小林秀雄氏は、「批評家失格 T」 のなかで、以下の文を綴っています。

     数学者に、頭のいい悪いはあろう、だが仕事の上で嘘をつく
    数学者なんてものは一人もいないはずである。ところが文化
    科学になると、いや芸術学というものは、頭がよくないという事
    は、嘘をつくと同じ意味を持つ。換言すれば、みんなが不誠実
    を否応なく強いられる。この世界では、仕事の上の仮定は、
    生活上の仮定のように頼りがない。

 この アフォリズム は、「反 コンピュータ 的断章」 で扱ったほうが誂 (あつら) え向きかもしれない。小林氏が この アフォリズム で明らかにした点を、システム・エンジニア たる私は、まさに、事務系 システム の分析段階・設計段階で痛感してきました。この アフォリズム を どのように適用するかは読み手の自由ですが、小林氏は、芸術の領域を対象にして、この アフォリズム を綴っているので、芸術の領域のなかで かれの謂いたいことを考えるのが適正でしょうね。

 芸術では、「みんなが不誠実を否応なく強いられる」 ので、「この世界では、仕事の上の仮定は、生活上の仮定のように頼りがない」 という文の 「意味」 は──小林氏が そういうふうに綴った意図は──、小林氏が 「アシル と亀の子」 で記した以下の文を思い起こせばいいでしょう。

 (1) 作家にとって作品とは彼の生活理論の結果である。
    しかも不完全な結果である。

 (2) 批評家にとって作品とは、その作家の生活理論の唯一の原因である。
    しかも完全な原因である。

 さて、この 生活理論の結果たる 「不完全な結果」 が、作家の制作理論において、「悪用」 されてはいないか、、、すなわち、「芸術において 『ロジック』 など不要だ、私は私の観たままを記述する」 というふうに。そして、「ロジック」 を知らないのが作家の特権であるとさえ思い違いしているのではないか。ただ、そういうふうに考えている作家など 「二流」 にすぎないでしょうね。

 現実的事態を或る視点において鷲掴みにしたとき、その状態は 「直観 (あるいは、着想)」 にすぎないのであって、「直観 (あるいは、着想)」 に対して 「構成」 を与えるのが文であるかぎりにおいて、作家は、「構成」 の ロジック を免れる訳じゃないでしょう。さらに、詩人においては、(小林氏の言を借りれば、) 「この言葉の二重の公共性──言葉の実践的公共性と、論理の公共性──を拒絶する事が詩人の実践の前提となるのである」。そして、そこでも、ロジック は前提とされています。いずれの場合であれ、「一流」 の作品というのは──私は、数多く作品を読んできてはいないけれど、いわゆる 「古典的な (すなわち、規範的な)」 と云われている作品を読んできて──、かならず、「繊細な感受性」 と 「確固たる ロジック」 を兼掌していることを感じます。「ただ カン の鈍さが理屈を言わしている」 ような態の一流作品などないでしょう。芸術においても、ロジック は最大の嗜みの ひとつでしょうね。

 
 (2010年 5月 1日)


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