小林秀雄氏は、「批評家失格 T」 のなかで、以下の文を綴っています。
公正な立場からものを言う。この時、人は慧眼にもならなけ
れば遅鈍にもならない。冷たい心に甲乙はない。人々は冷たい
眼で、或る作品からみな同量のものを読みとる。見窄 (みすぼ)
らしい致死量だ。他人 (ひと) も自分も殺せない。
月並みの定量以上のものが見える眼は、きっと熾烈 (しれつ)
な興味でかがやいている。興味は様々なものを明かす。作品の
うしろに隠れた、ペン を握る掌の厚さも明かす。
この断章は、先行する断章のなかで 「私は、手袋をはめた手で、仕事をいじられたかない」 と綴っていたことを言い換えたうえで、さらに、「作品のうしろに隠れた、ペン を握る掌の厚さも明かす」 ことに言及しています。「作品のうしろに隠れた、ペン を握る掌の厚さ」 というのは、作家の 「生活理論・制作理論」 のことでしょうね。
「公正な立場」 という語の 「公正な」 の意味は、「公平 (あるいは、中立)」 という概念で、かつ、(法的な 「公正証書」 という使いかたで示されるように、) 「規則に従って定めた」 という意味もふくんでいるかもしれないですね。思考力が或る程度あれば、賛否両論を作ることなど たやすいことです──なぜなら、或る言説 A に対して、補集合 ¬A を考えて、「反例 (¬A)」 を使って 「反証」 を構成すればいいだけだから。しかし、作家は、或る事態に対して或る見かたをして、無限とも言える表現法のなかから、みずからの 「文体」 で ひとつの記述を選んで、作品を刻んだのであって、批評家の眼前にあるのは、その ひとつの 「作品」 です。したがって、批評という行為は、「特殊風景に対する誠実主義」 に立っておこなうしかないはずです。そして、そうであれば、批評家は、作家の個性的な 「生活理論・制作理論」 と対峙するしかない。そして、遺憾なことには、文学のなかに理論を探っている批評家という専門家が作家の個性的な 「生活理論・制作理論」 を軽視してしまって 「科学的な」 接近法をとって、寧ろ、一般読者のほうが 「(ひとつの物語に対する) 感動」 として実感しているでしょう。「感動しながら思案するは難い」。
文芸の シロート である私であっても、もし、或る作品に関して批評文を綴るように依頼されたら、「さて、では、賛成の立場で綴ればいいですか、それとも、反対の立場で綴ればいいですか」 と確認することくらい たやすいことです。だから、「批評家失格」。
(2010年 5月 8日)