小林秀雄氏は、「批評家失格 T」 のなかで、以下の文を綴っています。
独断家だ、と言われる。ほんとうにそう思うかと真顔になって
聞き返す。相手は黙って何んにも喋ってはくれない。
私はただただ独断から逃れようと身を削って来た。その苛立た
しさが独断の臭いをさせているのだろう。だが私には辿れない。
他人にどうして辿れよう。きたならしい臭いである。
小林秀雄氏の評論文──あるいは、小林秀雄氏の 「作品」 と云っても同じですが──を一読したあとに感じる印象は、強烈な 「個性」 です。そして、この 「個性」 が、かれの評論を 「印象批評」 のように感じさせるようです。しかし、「個性」 的であることが 「独断的」 であるということにはならないはずです。
作家の 「作品」 を批評するためには、作家が観た視点 (生活理論) で、作家が使った文体 (制作理論) を追体験するしかないでしょうね。すなわち、批評家は、「作品」 を いったん 叩き壊して──「解析」 を窮 (きわ) めて──、「作品」 の生まれた始原的状態に立ち戻って、改めて 「作品」 を作家がやったのと同じように再構成しなければならない。批評家は、作家が感じた精神状態を同じように感じるほかない。批評家は、みずからの意見を排して、まず、「作品」 を忠実になぞって作家の 「主調低音」 を聴くほかない。批評家は、「作品」 の埒外に立って、「作品」 を ながめている訳じゃない。もとより、作家と批評家は、べつべつの人物です。したがって、作家の頭脳・精神のなかで起こった現象を批評家が忠実に辿れる訳じゃない──他人はそれ (精神作用) を判断すべき尺度を絶対に持っていないでしょう。作家の思考・精神を搦め手に候視して、論 (あげつら) う、そこには批評家の臭いがでる──「きたならしい臭いである」。でも、その臭いは、更々、「独断の臭いでない」 ことは確かでしょう。(「科学的」 と称する) 尺度を持ち込むほうが 「独断的」 だと私は思います。
(2010年 5月16日)