小林秀雄氏は、「批評家失格 T」 のなかで、以下の文を綴っています。
理性が心と結ばぬうちは、だれのもみんなおんなじだ。光源を
離れたばかりの光のように、この無色の光の手を借りて、私は
理窟を建築する事も好まない。建築を叩きこわす事も好まない。
それはおんなじ事を意味する。
私は客観的な尺度などちっとも欲しかない。客観が欲しいのだ。
片時も尻の暖まらない、姿も見えない心を追いたくはない。心は
凝 (じ) っとしていて欲しいのだ。手で重さを積ってみたいのだ。
姿も色も見たいのだ。眼の前の煙草の箱を見るように。
この文の主旨を把握することは、「批評家失格 T」 のなかで この文に至るまでの断想群を読んできていれば、取り立てて難しいことではないでしょう。「私は客観的な尺度などちっとも欲しかない。客観がほしいのだ。」 という文は、「反 コンピュータ 的断章」 のなかで テーマ にしたい意見ですね──「反 コンピュータ 的断章」 のなかで、私は、「手続きにさえ従っていれば、非難されない (あるいは、失敗しない) とか期待値を稼得できる」 ことを幾度も非難してきました。
対象を 「客観的な尺度」 で測ること (そして、測った結末) が 「客観」 になるとは限らない。というのは、推論の手続き (あるいは、固定化された尺度) が 「真」 であっても、「前提」 が 「偽」 であれば、「結論」 は 「偽」 となるのが ロジック の手続きです──「前提」 が 「偽」 であることを承知のうえで (あるいは、「前提」 が 「真」 であることを確認しないで) 「妥当な推論式」 を適用することは 「客観」 とは云えないでしょう。
さて、文芸の領域では、「作品」 を批評するには、「作品」 が 「真」 であること──ここで謂う 「真」 は、ロジック 上の 「真」 とは違う意味で使っている点に注意されたい──を確認して、かつ 「批評」 が 「真」 になることを実現しなければならないはずです。「作品」 が 「真」 であるという意味は、「作品」 が作家の生活理論・制作理論で作られたということであって、「心にもない」 ことを小手先の技術で綴ったというような状態ではない、ということでしょうね。作家が 「作品」 のなかに込めた (あるいは、「作品」 として構成した) 「心」 を批評家は掴んで 「手で重さを積って」 味わい評しなければならない──「眼の前の煙草の箱を見るように」。
それ (作家の「心」) を測る定規など存在しないでしょう──作家の 「心」 に即して、「感動しながら思案するのは難しい」。作家の 「心」 に即して感動しながら思案するというのが 「客観」 ということでしょうね。そして、一見 「客観的な尺度」 と錯覚されるような・その実が安物の定規などは作家の思いの熱さで延びて目盛りが狂ってしまうでしょう、きっと (笑)。感動しながら思索した・耐熱性のある頑丈な ロジック、それが批評ということでしょうね。
(2010年 6月 1日)