小林秀雄氏は、「批評家失格 T」 のなかで、以下の文を綴っています。
以下の引用文は長くなりますが、「芸術」 の性質を撃ち抜いているので読んでみてください。
実生活にとって芸術とは (私は人々の享楽あるいは休息あるいは
政策を目的とした作物を芸術とは心得ない) 屁のようなものだ。
この屁のようなものとみなす観点に立つ時、芸術というものを一番
はっきりと広く浅く見渡す事が出来るとともに、一番朦朧 (もうろう)
と深く狭く覗 (のぞ) く事が出来る。ここに客観的批評と主観的批評
が生れる。芸術が何か実生活を超えた神聖物とみなす仮定の上には
どんな批評も成り立たぬ。
「芸術を通じて人生を了解する事は出来るが、人生を通じて芸術
を決して了解する事は出来ない」 と。これは誰の言葉だか忘れたが
或る並々ならぬ作家が言ったことだ。一見大変いい気に聞えるが危い
真実を貫いた言葉と私には思われる。普通の作家ならこうは言うまい。
次のように言うだろう。「芸術は人生を了解する一方法である」 と。
これなら人々はそう倨傲 (きょごう) な言葉とは思うまい。だが、
これは両方とも同じ意味になる。ただ前者のように言い切るには
よほどの覚悟が要るだけだろう。理窟を考える事と、考えた理窟が
言い切れる事とは別々の現実なのだ。
芸術の、一般の人々の精神生活、感情陶冶 (とうや) への寄与、
私はそんなものを信用していない。
それより人々は実生活から学ぶ方がよっぽど確かだ。事実人々は
そうしている。実生活で鍛え上げた心が、どうして芸術なんかを心底
から味わう。鼻であしらうのは彼ら当然の権利である。
実生活に追われて人々は芸術をかえりみないのではないのだ。
生活の辛酸にねれた心が芸術という青春に飽きるのでもないのだ。
彼らは最初から、異なったこの世の了解方法を生きて来たのだ。
異なる機構をもつ国を信じて来たのだ。生活と芸術とは放電する
二つの異質である。
作家の栄光は批評家にとっては癌 (がん) である。
私 (佐藤正美) は、小林秀雄氏の意見に同感を抱いています。三島由紀夫氏ならば、以下のように言うでしょうね。
二十年間も小説家でゐながら、自分の書いたものが死や破壊は
おろか、読者に風邪一つ引かせることができなかつたといふこと
に、気づかない人間がゐたとしたら、まづ正真正銘の馬鹿者である。
そして、三島由紀夫氏は、古典主義的傾向の帰結として古代 ギリシア に範を仰ぎ 「潮騒」 を執筆したのですが、かれの言を そのまま引用すれば、「『潮騒』 の通俗的成功と、通俗的な受け入れられ方は、私にまた冷水を浴びせる結果になり、その後 ギリシャ 熱がだんだんとさめる キッカケ にもなつたが、これは後の話である」 とのこと──「作家の栄光は批評家にとっては癌である」 と同時に、作家も それ (作家の栄光) が癌であることを自覚しています。三島由紀夫氏は、「芸術」 としての作品と 「生活費を稼ぐための」 通俗小説とを書き分けていたそうです。
私は小林秀雄氏・三島由紀夫氏ほどの才がないのですが、それでも、文学愛好家として 「芸術」 を観ていても 「芸術と実生活は、『住む世界がちがう』」 という感を抱いています。そして、「芸術が何か実生活を超えた神聖物とみなす」 ような態度に対して──あるいは、「芸術鑑賞」 を 「教養」 だとみなす態度に対して──私は嫌悪感を覚えます。そんな態度をとるくらいなら、以下のように言い切る覚悟を持ったほうがいい。
わたしは
わたしを わすれはてて
じぶんが
美しい物語に なってやろうか !?
この詩は、八木重吉氏の詩で、宗教 (キリスト 教) に対する 「信」 を歌っているのですが──かれの詩集 「痴寂なる手」 から引用しました──、「芸術」 に対しても、そう言い切ることができるでしょう。「芸術」 をもって実生活に対して そういう態度を実現したならば──勿論、そういう態度は、実生活のなかで宙に浮いてしまうのは眼に見えていますが──、批評家は批評しにくいでしょうね (笑)。芸術的生活なんて戯言だって? 強烈な恋愛をしてみればいい──そのときには、だれもが実生活のことなど忘れて愛しあっているでしょう、ただし、世間の眼には、逆上 (のぼ) せた痴情に見えるでしょうね。世間の眼で観れば、「芸術」 の性質も それと同じでしょう。
(2010年 6月 8日)