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And the tongue is like a fire. It is a world of wrong. (James 3-6)

 



 小林秀雄氏は、「批評家失格 T」 のなかで、以下の文を綴っています。

     どんな切実な告白でも、聴手は何か滑稽を感ずるものである。
    滑稽を感じさせない告白とは人を食った告白に限る。人を食った
    告白なんぞ実生活では、何んの役にも立たぬとしても、芸術上
    では人を食った告白でなければ何んの役にも立たない。

     優れた作品はみな人を食っている、どんなおとなしく見える作品
    でも人はちゃんと食っている。そこには人世から一歩すさった眼
    があるのだ。しばらく人間を廃業した眼があるのだ。

     作品の現実とはいつも象徴の現実である。

 「人を食う」 という意味は、「騙す」 という意味でしょうね、しかも、「少々、惚けた態度で」。「すさぶ」 には、「荒 (すさ) ぶ」 と 「遊 (すさ) ぶ」 という ふたつの意味があるのですが、小林秀雄氏は、たぶん、これらの ふたつの意味を込めるために 「ひらがな」 を使ったのかもしれないですね。

 さて、現代の文学愛好家ならば、もっと スマート な言いかたをするかもしれない──「嘘 (虚構) でしか語れない真実もある」 と。そして、「告白」では、「『滑稽』 を感じさせないように、『嘘 (虚構)』 を破綻しない帳尻のあった構成にする」 と。しかし、そういう スマート な言いかたでは、「きたならしさ (生々しさ)」 がでない。同値文 (同じ意味を伝えている文) であっても、「表現」 次第で、「感動」 の伝わりかたは違ってくる、というのが文芸の難しさでしょうね。小林秀雄氏が使った語・措辞 (「人を食った告白」 「一歩すさった眼」) は、他の言いかたで置き換えられないでしょう。

 「実生活」 から観れば 「象徴の現実」 は 「滑稽」 にしか思えないし、「象徴の現実」 から観れば 「実生活」 は 「滑稽」 にしか感じられないでしょう──とうとう、ふたつの世界 (「実生活」 と 「象徴の現実」) は、どこまで延長しても、平行線のままでしょうね。

 
     幕を降ろせ。 喜劇は終わった。 (ラブレ、人文学者)

 上に引用した ことば は、臨終の ことば だそうです。私も、人生を終えるときに、そう言うかもしれない、、、。

 
 (2010年 6月16日)


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