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they were singing a new song, which only they could learn (Revelation 14-3)

 



 小林秀雄氏は、「批評家失格 T」 のなかで、以下の文を綴っています。

     心境小説というものがある。娑婆 (しゃば) 臭い心根を語って
    歌とする事は至難の業だ。本格小説というものがある。苦しんで
    辿った自分の心を歌いたいという情熱をおさえる事は至難の業だ。
    このどっちかの至難を痛感しない人は作家でもなんでもない。

 小林秀雄氏の言いかたを芥川龍之介氏ふうに言えば、以下の言いかたになるでしょう (「侏儒の言葉」)。

    最も善い小説家は 「世故に長じた詩人」 である。

 ただ、芥川龍之介氏の言いかたは、どうも理知的で、小林秀雄氏の云う 「情熱をおさえる事は至難の業だ」 が伝わってこないですね。

 年齢が 60歳近くにもなれば、人生で様々な経験をしてきて、小説の材料を豊富に持っている人たちも多いでしょう。でも、人生経験が豊富だから小説家になれる訳じゃない。じぶんが歩んだ人生を 「物語」 にするためには、「生活理論」 と 「制作理論」 がなければならない。「生活理論」 というのは、「独自の (あるいは、だれも語っていない新たな) 視点」 で観た・そのひとの人生観が生々しく感じられる面貌を示していなければならないでしょうね。copycat (つまり、二番煎じ) じゃ 作家にはなれない。亀井勝一郎氏ふうに言えば、以下の言いかたになるでしょう (「思想の花びら」)。

    富士山ほどくりかえし描かれた山はない。あの三角形の単純な
    かたちは、たちまち倦(あ)きられて俗化してしまう。そのとき、
    あらためて富士山の新しいすがたを発見するものこそ一流の画家
    だ。たとえば北斎のような富士山の眺めは、それ以前の誰も描か
    なかった。平凡にみえる自然のなかに、千変万化の非凡なすがた
    を発見するのが芸術である。

 そして、独自の視点を 「歌」 にする 「制作理論 (文体)」 を体得していなければならない。しかも、じぶんの 「文体」 をもつためには、長いあいだの習練がいる。「作家は、小説を書きながら小説を覚える」 と言っていいでしょう──そして、「小説」 を、上に引用した小林秀雄氏の文の ことば で言えば、「歌」 と言ってもいいでしょうが、じぶんの辿った精神の旅を歌う情熱をもちつづけて、それを歌う技術は「至難の業」 です。私には、情熱はあったが、技術がなかった、、、。

 
 (2010年 6月23日)


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