小林秀雄氏は、「批評家失格 T」 のなかで、以下の文を綴っています。
批評と創造との間には、その昔、無機体が有機体に移ったような
事情があるのであろう。正 (まさ) しくつながりがあろうが、また、
正しく透 (す) き間があるのであろう。
上に引用した文は、「批評家失格 T」 の最後に綴られている文です。そして、この文は、「反 文芸的断章」 (2009年12月16日) で引用した以下の文 の言い換えでしょうね。
(1) 作家にとって作品とは彼の生活理論の結果である。
しかも不完全な結果である。
(2) 批評家にとって作品とは、その作家の生活理論の唯一の原因である。
しかも完全な原因である。
すなわち、上に示した関係── R ( 作家, 作品 ) と R ( 作品, 批評家 ) という それぞれの 2項関係──において、推移律は成立しないけれど、なにがしかの 「強い相関」 がある、ということ。小林秀雄氏は 「批評家失格 T」 のなかで、色々な視点で──それらの視点を それぞれの断章という形で──「批評家たること」 の感性・知性を述べようとしています。その 「相関」 や 「批評家たること」 が いかなる状態なのかを小林秀雄氏は 「批評家失格 T」 で記述しようと試みているのですが、かれの意見を 「要するに」 一言でいえば、とても簡単な (常識的な) ことなのですが、その一言に要約してしまうと、それこそ 「批評家失格」 でしょうね。
「批評家失格」 で終わるならまだしも、頭が他人 (ひと) から借用した ことば で充満していて、頭の味噌が正しく醸成されていなければ──味噌の醗酵が正常に起これば、「きたならしい臭い」 が漂うはずですが、そうでなければ──、醸成されていない味噌は、とても喰えた物じゃない (そうであれば、オートマトン になって 「人間失格」 でしょう)。批評とは、じぶんを生きることでしょうね。
(2010年 7月 8日)