小林秀雄氏は、「物質への情熱」 のなかで、正岡子規の 「歌よみに与うる書」 に関して、以下の文を綴っています。
その批評文には、時としては殆ど笑止ともみえるほど見事な彼の
実証家精神が露出している。「歌よみに与うる書」 でも、勿論、極端
に曖昧と飛躍を嫌う理論が綿々として進行するのであるが、歌よみ
どもには解らない。なるほど、彼らとてもこの綿々たる理論の糸は
辿れたであろうが、子規の情熱は何んとしても辿れなかったので
ある。彼らには子規の言葉が子規の抜差しならぬ叫喚であった事
が如何にしても解らなかったのだ。どんな大きな情熱も情熱のない
人を動かす事は出来ないのかもしれない。子規の言葉は理論では
ない、発音された言語である。「歌よみに与うる書」 は真実の語り
難いのを嘆じた書状である。果たして他人 (ひと) を説得する事
が出来るものであろうか、もし説得出来たとしたら、その他人は
初めから、説得されていた人なのではないか。私のようなものにも、
この確信は日増しに固まるばかりである。
小林秀雄氏は、「私のようなものにも、この確信は日増しに固まるばかりである」 と綴っていますが、私 (佐藤正美) も同感です。小林秀雄氏が綴ったことと同じことを (私が尊敬する哲学者である) ウィトゲンシュタイン 氏は かれの著作 「論理哲学論考」 の序文の最初で以下のように記 (しる) しています。
本書は、ここに表わされた思想──少なくとも、それと類似の思想
──をすでに自身で一度は考えたことのある読者だけに理解される
であろう。──それゆえ、本書は教科書と異なる。──もし理解を
もって読む一人の読者に満足を与えたなら、それで本書の目的は
果たされたことになろう。(参考 1)
Perhaps this book will be understood only by someone who
has himself already had the thoughts that are expressed in it
--or at least similar thought.--So it is not a textbook. Its
purpose would be achieved if it gave pleasure to one person
who read and understood it.(参考 2)
つまり、同じ対象に対して 「情熱」 をもって徹底的に考えたことのないひと とは 「共有」 (あるいは、「共感」) できる所思がない、ということ。
それ (「共有・共感」 できないこと) を述べるために、小林秀雄氏は、上に引用した文に先立って、以下の文を綴っています。
馬鹿は花崗石 (みかげいし) みたいなものだ、ぶつかって行けば、
こっちがぺちゃんこになるだけだ、とは誰やら名高い人の言葉である。
昔から石にお灸 (きゆう) ということもある。こういう事情を、個人
主義だとか天才主義だとかいうのも、変な話で、正直に日を送って
さえいれば誰も毎日経験している処だ。どうもうまく言えないだとか、
結局わかってはもらえまいだとか、たいがい悧巧ならこんな言葉を
吐いているものだ。石上の灸 (きゆう) を嘆ずるために、わざわざ
天才になる男もない。
「思想」 を述べている書物を読んでいて、あるいは、思い (意見) を述べている話を聴いていて、「情熱」 (あるいは、「覚悟」) のない──言い換えれば、対象に全身全霊で誠実に・真っ直ぐに立ち向かっていない──意見を私は信用する気になれない──たとえ、それが非のない意見であったとしても。「情熱」 の伝わってこない文は、たとえ ロジック が完璧であっても、なにかしら、行間には 「こんなの ちょろいもんさ」 という小悧巧さ (あるいは、指示されたことしかやらないという無興感) を感じることが多いので。「これを どうしても書きたい」 という動機があれば、おのずから、「情熱」 は迸るでしょう──尤 (もっと) も、「情熱」 のみが迸って、「情熱」 を正確に表現する 「技術」 のないのは論外です。それを小林秀雄氏は、以下のような見事な文で撃ち抜いています。
詩人は美しいものを歌う気楽な人種ではない。在るものは ただ
現実だけで、現実に肉薄するために美しさを頼りとしなければなら
ないのが詩人である。女に肉薄するのに惚れるという事を頼りに
するのが絶対に必要なようなものである。
惚れたときには、必ず、対象に関しての 「発見」 があるはずです。「発見」 するためには、無論、「繊細な感性」 と 「明晰な知性」 がなければならないでしょうね。他人 (ひと) が気づかなかった隠れた性質・構成を発見するのが 「愛」 でしょうね。それ (愛) を 「情熱」 と云っていいでしょう。ただ、「情熱」 は、対象の美しさだけを発見するのではないのであって、美しさと同時に醜さも発見するかもしれない、、、。他人 (ひと) には見えない物が見えすぎるというのは不幸なことなのかもしれない。小林秀雄氏は、子規の 「歌よみに与うる書」 に関する エッセー を以下の文で終えています。
ささやかな美に溺れても、溺れ切った人は、傍人のうかがい知れぬ
現実の形を握るであろう。一見感傷的な歌も、達人の歌は底知れぬ
苦さを蔵する所以である。名人は危きに遊ぶという、真実とは常に
危いものであるらしい。
(参考 1)
「論理哲学論考」、法政大学出版局、坂井秀寿 氏の訳。
(参考 2)
TRACTATUS LOGICO-PHILOSOPHICUS, translated by D.F.Pears and B.F. McGuinness, ROUTLEDGE
(2010年 7月16日)