小林秀雄氏は、かれの エッセー 「心理小説」 のなかで、以下の文を綴っています。
「新文学研究」 創刊号で伊藤整氏の 「新しき小説における心理
的方法」 という論文を読んだ。氏の論旨は大変簡単で、今日まで
の話術を基礎とした小説の手法は十九世紀の大小説家等において
その極点に達した、だから将来同じ手法では小説は衰退向うより
外にどうにも仕方がない。ここに ジェイムズ・ジョイス 等によって
創始された意識の流れに重点を置く、あるいは人間の内部現実を
主体とする、心理的記録方法が将来小説の発展の鍵を与えてくれ
る、というのである。
いつか、わが文学界にも、「意識の流れ派」 という一団が、賑々
(にぎにぎ) しく登場するような時が来るかもしれない。いや、どう
してこの秋くらいからお祭りは始まるかも知れない。凡 (およ) そ
気まぐれなんだから見当がつかぬ。批評家諸君用意はよいか。
もっとも誰も用意なんかするものはあるまい。どうせ誰にも見物
する用意がない処で踊るのだ。かつて ダダイスム がそうであった
ように、今日の シュルレアリスム がそうであるように。■謗 (せん
ぼう) [ 「せん」 は言偏の右に山という字 ] の雨をくぐって故国を
のがれ、僅かに語学の天才 ランボオ の手によって捕えられた
ジョイス が、今日、作家知性の悪闘については宿命的に冷淡な
わが文学界を正当に動かすなどと、誰が信じよう。重ねて言うが、
私は決して ジョイス の新手法の到来を軽んじてはいないのだ。
ただ人々が、こういう独自な形式に飛びつくほどせっぱつまった
心持ちでいるのかどうかを、甚だ疑問に思うのである。
「心理小説」 は、4つの セクション から構成されていて、上に引用した文は、最初の セクション──原文では、1 という番号が付与された セクション──のなかに出てくる文です。
さて、上に引用した文において、小林秀雄氏の主張は、「ただ人々が、こういう独自な形式に飛びつくほどせっぱつまった心持ちでいるのかどうかを、甚だ疑問に思うのである」 という文でしょうね。小林秀雄氏がみずからの批評法を率直に吐露した 「アシル と亀の子」 において、以下の文を綴っています。
仲間が仲間の符牒 (ふちょう) を発明して行くのは当然な事で
あって、例えば テキ 屋諸君は テキ 屋諸君の符牒を活用する。
そして彼らの間では、符牒は実際行為に関して姿をあらわすだけ
だから、符牒は常に正当な役割を謙虚に演じている。だが、批評家
諸君の間では、符牒は精神表現の、あるいはその伝達性の困難を、
故意にあるいは無意識に糊塗 (こと) するために姿をあらわして
来るのだから話が大変違ってくる。この困難を糊塗するという事は、
別言すれば、自分で自分の精神機構の豊富性を見くびってしまう
ことに他ならない以上、見くびられたこの自分の精神機構の豊富
性の恨みを買うのは必定 (ひつじょう) であって、符牒は勝手に
反逆し、自分の発明した符牒が人をまどわすと同程度に当人を誑
(たぶら) かす。馬鹿を見るのは読者ばかりではない、批評家
当人たちも仲間同士の泥仕合で馬鹿を見ている。
私はこういう符牒に信用を置かない男だ。符牒に信用を置かない
という事が批評精神というものだと信じているものだ。
「アシル と亀の子」 で披瀝 (ひれき) された批評の態度は、「心理小説」 の最初の セクション で現れていますね。「せっぱつまった心持ち」 がなければ、ひとは本気で取り組まないという当たり前のこと (自然なこと) を小林秀雄氏は確認しています。そして、「作家知性の悪闘については宿命的に冷淡なわが文学界」 のなかに、そういう 「せっぱつまった心持ち」 などないことを かれは指摘しています。われわれは、ロジック で説得されたからといって納得して振る舞う訳じゃない──そして、「せっぱつまった心持ち」 とは、すでに共感の土壌が整っているということでしょうね。小林秀雄氏は、「物質への情熱」 のなかで、以下の文を綴っています。
果して他人 (ひと) を説得する事が出来るものであろうか。
若 (も) し説得出来たとしたら、その他人は初めから、説得
されていた人なのではないか。
読み手のほうで 「せっぱつまった心持ち」 がなければ、たとえ、書き手が自分の思いを真摯に綴っても、読み手のほうは、書き手が新しい 「表現」 を探そうと悪戦苦闘していることに対して共感することもないので、書き手の綴った 「符牒」 に対して 「様々なる意匠」 を着せて玩 (もてあそ) んでしまう、ということでしょうね。私は、小林秀雄氏の意見を至極当然だと思っています。「心理小説」 の セクション 1 のなかで、小林秀雄氏は、以下の文を綴っています。
伊藤整氏等の困難な ジョイス の翻訳紹介の努力を私は多とする
ものである。ことに今日、装飾的に彩色を増して、本質的な何ら
の技巧の革命にも苦しまないわが国の文学へは勿体ないほどの
賜物だとは信ずるのだが、私はただこういう傑作が多くの新しい
模倣者たちの餌 (えさ) となる点に疑問を持つ。一体伊藤氏の
言われる、話術に基礎を置いた、つまり極く普通なものの言い方
で書かれた在来の小説が、本当に行き詰っているのであるか。
そして、それに対する かれの意見を以後の セクション で述べています。次回は、セクション 2 のなかで述べられている かれの意見を検討してみましょう。
(2010年 8月16日)