小林秀雄氏は、かれの エッセー 「心理小説」 のなかで、以下の文を綴っています。
「心理学は頭にくる酒みたいようなものだ。安かったと思ってもあと
できっと後悔する。私は両方とも性懲(しょうこ)りもなく経験して来た」
と私はかつて書いた事がある。冗談を言ったのではないのである。
形而上学と修辞学との奇妙に混淆したこの一種の科学は、いつも
人を不安にする魅力を持っている。ジャネ は ブウルジェ に教えた
のだろうか。プルウスト は フロイト に学んだのだろうか。事実は
恐らくその逆ではなかっただろうか。
さて、最後に、この世の物理学的実在と、これに全体的に応じる
人間という一種の電磁的体系中に起る生理学的全過程と、否応なく
仮定された科学者の眼光と、これら三つの条件による力学的場の裡
に、あらゆる人間心理を構成しようとする ケエレル の世界を、「マル
ジナリヤ」 中で一端を洩らされた想像力に統制された ポオ の世界
に比較してみ給え。人々はその深刻な酷似に驚くはずである。
かかる時、心理小説とは一体何物であろうか。
上に引用した文は、「心理小説」 のなかで、セクション 4 ──原文では、4 という番号が付与された セクション──において、最初 (書き出し) と最後 (締め括り) に綴られている文です。そして、この セクション 4 が最終の セクション です。そして、小林秀雄氏は、セクション のなかばで 「ゲシュタルト 心理学」 にも言及していて、この 「新しい学派」 が 「人の心を状態と見做 (みな) さず、活動と率直に容認」 したことを平明自明として、以下の文を綴っています。
(略) 生活体は外界に対して機能的全体として全事態への反応で
ある全体過程をもって応じるという平凡な事実を (略)
小林秀雄氏の謂いたいことは、私 (佐藤正美) のわかるかぎりで言い換えてみれば、「心理学は、実証主義のように見えるが、その実、文学みたいな顔をしている哲学 (形而上学と修辞学との奇妙に混淆したこの一種の科学)」 であって、作家は、そんな 「科学」 で捉えた心理を作品のなかで記述しない、ということでしょうね──作家は、抽象論を前提にした 「意識の解析」 などを作品にしない、ということ。三島由紀夫氏の言を借りれば、「小説家は厳密に言ふと、認識者ではなくて表現者であり、表現を以て認識を代行する者である。作家が小説を書くことにより、表現してゆくことにより、はじめて認識に達するといふ言い方は正確ではない。作家の狡猾な本能は、自分に現前するものに対して、つねに微妙に認識を避けようとするからである。殺して解剖しようとする代りに、生け擒りにしようと思ってゐるからである」 ということ。文学は心理学ではない、という当たり前のことを外さなければ宜しい。
私には、小林秀雄氏の意見は、極々当然のことに思えるのですが、ただ、私が、もし、心理学の書物を読んで──たとえば、フロイト の著作を読んで──文 (「表現」) が見事であれば、私は、ひょっとしたら、心理学の やりかた を 「人間観察」 の やりかた として借用したがるかもしれない──此(こん)な所が此(こん)なものかも。心理学の 「分析」 を小説に借用しても、「下手(へた)気の抜けぬ未熟柿(なまじゆくし)」 のような状態でしょうね。
そういえば、昔 (30年くらい前のこと)、或るひとが、私に対して、(心理学を応用した) 「心理 テスト」 とかいう ミーハー な質問を幾つかして、私の応えが悉 (ことごと) く かれの期待値と違っていたので、かれは 「そんなはずはない」 と やや憮然としていたのを想い出しました (笑)──「そんなはずはない」 と謂われても、私は正直に応えたのですが、、、。私は、「生身」 であって──したがって、時として、じぶんが どんなことをやらかすか じぶんでも わからないのであって──、作用の アルゴリズム を推測できるような 「推論する機械」 じゃない。朝、目を覚ますために飲んだ コーヒー の温度が いつもに比べて やや熱くて、一日中、不機嫌になって、そのささいな出来事が その日の思考にも悪影響を及ぼすほどに、私は 「単純な」 生物体です (笑)──しかし、私の この反応は、「一種の電磁的体系中に起る生理学的全過程」 では説明できないでしょうね (笑)。生理学的・物理学的な説明を援用しなくても、なんのことはない常識的に謂えば、私は、ただ、感受性が強くて、神経質で、内気で、執着の強い性質であるといえば わかるでしょう。
伝来の文芸が人物の ふるまい において表現しなかった (あるいは、表現しきれなかった) ことが 「心理学」 を援用すれば的確に記述されるとは私には思えない。次のように言い換えてもいいかもしれない──以下の和歌 (クラシック 文学) は、「心理学」 を援用した散文 [ 和歌に比べて形式が自由な文 ] として記述したら、いっそう、「心理」 を的確に記述できるのか、と。
はるかなる岩のはざまにひとりゐて人目思はでもの思はばや
(西行法師、新古今集巻 12・恋歌二・1099番)
言い難い 「心理」 を ことば に託するのが文芸ではないか。
和歌の場合には、文字数が制限されているので、説明を避けて、抒情 (緊張の頂点) を詠わなければならないのに対して、小説の場合には、文字数が制限されていないが故に 「構成」 が中軸になって、たとえば、人物を描くときに、「条件と反応」 を描くことになるので、心理学的図式を持ち込みやすい自由度が高いのでしょうね。「自由度」 というふうに綴ったように、そういう やりかた (心理学的図式) を導入することも、勿論、ひとつの やりかた としていいのだけれど、そういう やりかた が作家の感じた想念を読み手に対して 「感動」 として伝えることができるのか問えば、読み手は作品のなかに作家の 「個性」 を感じても、「感動」 を覚えるに至らないのではないかしら。作家の想念 (ものごとに対する感激) なくして書かれた小説というのは、はたして、小説に値するのかしら。そういう やりかた (心理学的図式) が、たとえ、ひとつの やりかた だとしても、「文学の ありかた」 ではないことは確かでしょう。
(2010年 9月 8日)