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you are one of them,... the way you speak gives you away! (Matthew 26-73) |
小林秀雄氏は、かれの エッセー 「心理小説」 のなかで、以下の文を綴っています。
「心理学は頭にくる酒みたいようなものだ。安かったと思ってもあと
さて、最後に、この世の物理学的実在と、これに全体的に応じる 上に引用した文は、「心理小説」 のなかで、セクション 4 ──原文では、4 という番号が付与された セクション──において、最初 (書き出し) と最後 (締め括り) に綴られている文です。そして、この セクション 4 が最終の セクション です。そして、小林秀雄氏は、セクション のなかばで 「ゲシュタルト 心理学」 にも言及していて、この 「新しい学派」 が 「人の心を状態と見做 (みな) さず、活動と率直に容認」 したことを平明自明として、以下の文を綴っています。
(略) 生活体は外界に対して機能的全体として全事態への反応で 小林秀雄氏の謂いたいことは、私 (佐藤正美) のわかるかぎりで言い換えてみれば、「心理学は、実証主義のように見えるが、その実、文学みたいな顔をしている哲学 (形而上学と修辞学との奇妙に混淆したこの一種の科学)」 であって、作家は、そんな 「科学」 で捉えた心理を作品のなかで記述しない、ということでしょうね──作家は、抽象論を前提にした 「意識の解析」 などを作品にしない、ということ。三島由紀夫氏の言を借りれば、「小説家は厳密に言ふと、認識者ではなくて表現者であり、表現を以て認識を代行する者である。作家が小説を書くことにより、表現してゆくことにより、はじめて認識に達するといふ言い方は正確ではない。作家の狡猾な本能は、自分に現前するものに対して、つねに微妙に認識を避けようとするからである。殺して解剖しようとする代りに、生け擒りにしようと思ってゐるからである」 ということ。文学は心理学ではない、という当たり前のことを外さなければ宜しい。 私には、小林秀雄氏の意見は、極々当然のことに思えるのですが、ただ、私が、もし、心理学の書物を読んで──たとえば、フロイト の著作を読んで──文 (「表現」) が見事であれば、私は、ひょっとしたら、心理学の やりかた を 「人間観察」 の やりかた として借用したがるかもしれない──此(こん)な所が此(こん)なものかも。心理学の 「分析」 を小説に借用しても、「下手(へた)気の抜けぬ未熟柿(なまじゆくし)」 のような状態でしょうね。 そういえば、昔 (30年くらい前のこと)、或るひとが、私に対して、(心理学を応用した) 「心理 テスト」 とかいう ミーハー な質問を幾つかして、私の応えが悉 (ことごと) く かれの期待値と違っていたので、かれは 「そんなはずはない」 と やや憮然としていたのを想い出しました (笑)──「そんなはずはない」 と謂われても、私は正直に応えたのですが、、、。私は、「生身」 であって──したがって、時として、じぶんが どんなことをやらかすか じぶんでも わからないのであって──、作用の アルゴリズム を推測できるような 「推論する機械」 じゃない。朝、目を覚ますために飲んだ コーヒー の温度が いつもに比べて やや熱くて、一日中、不機嫌になって、そのささいな出来事が その日の思考にも悪影響を及ぼすほどに、私は 「単純な」 生物体です (笑)──しかし、私の この反応は、「一種の電磁的体系中に起る生理学的全過程」 では説明できないでしょうね (笑)。生理学的・物理学的な説明を援用しなくても、なんのことはない常識的に謂えば、私は、ただ、感受性が強くて、神経質で、内気で、執着の強い性質であるといえば わかるでしょう。 伝来の文芸が人物の ふるまい において表現しなかった (あるいは、表現しきれなかった) ことが 「心理学」 を援用すれば的確に記述されるとは私には思えない。次のように言い換えてもいいかもしれない──以下の和歌 (クラシック 文学) は、「心理学」 を援用した散文 [ 和歌に比べて形式が自由な文 ] として記述したら、いっそう、「心理」 を的確に記述できるのか、と。
はるかなる岩のはざまにひとりゐて人目思はでもの思はばや
言い難い 「心理」 を ことば に託するのが文芸ではないか。 |
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