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you will never see me again until you say God bless him... (Matthew 23-39) |
小林秀雄氏は、かれの エッセー 「文芸批評の科学性に関する論争」 のなかで、以下の文を綴っています。便宜上──後で参照するために──、それぞれの段落に番号を付与しておきます。
[ 1 ]
[ 2 ]
[ 3 ]
[ 4 ]
[ 5 ] 長い引用になりましたが、ひとつのまとまった意見として扱うには、途中で切ることができなかった次第です。[ 5 ] の最後に提示されている問題点 「作品を社会的、機能的に分析しようとする時、作品は、どんな世界で、その全面目を現しますか」 については、次回に扱いましょう。 さて、[ 1 ] では、論争において問題になっている所在として、小林秀雄氏が絞った点は 「印象 (感性的計量)」 という 「認識概念」 です。この概念を 「実在物」──「無条件的である」──と考える点では、印象派も唯物派も変わりがない。要は、この 「実在物」 を分析するか否か、という点にある、ということ。唯物論は、これを分析しない、と。 [ 2 ] において 「図式」 の性質が [ 1 ] に対応して示されています──「図式」 は、図式であるかぎりにおいて、実践ではないのであって、たとえ、図式が実践を写像した形式的構成であっても、図式の体系と実践の体系とは 「1-対-1」 の対応にはならない [ 言い換えれば、図式のなかで記述されている項と現実的事態のなかの個体は、双射にはならない ]。実際の批評活動 (あるいは、思考) というのは──「作品 (批評文)」 ではないことに注意して下さい──、ひとつの 「閉包 (closure)」 として範囲を切断することができない、言い換えれば、批評活動の最中にあって 「延長の無限」 も起こるし 「切断の無限」 も起こります。ひとつだけはっきりしていることは、「作品」 が存在する、ということ。 [ 3 ] において、「商品の機能という事は、同時にその存在という事を意味します」 という記述 [ そういう考えかた ] は、およそ、科学的な思考法 [ 科学的な技術 ] であれば、当然の やりかた でしょうね。一つの存在というは、それをふくんだ現象のなかの一つの項にすぎないのであって、ひとつの項であるかぎりにおいて、他の項との関係のなかで──言い換えれば、作用 [ 機能 ] のなかで、その存在を認識されることになるでしょう。「商品」 であれば、その関係 [ 機能 ] が 「社会的機能」 ということ。そういうふうに実体化すること──言い換えれば、「機能を分析して、存在の座標を与える」 ということ──を、小林秀雄氏は、「精神化」 というふうに云っています。私 (佐藤正美) は、「精神化」 という ことば を そういうふうに使うことに対して 若干の抵抗を感じますが、「形而上学的な働きをする実体としての精神を重く視る」 という 「文字通りの」 意味であれば、小林秀雄氏の用語法は正しいし、私のほうが 「精神」 という語の使いかたにおいて、なんらかの偏癖に惑わされているのかもしれない。そして、その惑いを、小林秀雄氏は、次の文で見事に暴いています──曰く、「人々は精神とか物質とか、観念論とか唯物論とかいう言葉に、どうしてそんなに神経質にこだわっているのでしょうか。「資本論」 の第一巻第一章を読んでごらんなさい。あそこで、彼が商品を縦横に分析している方法は、観念論的方法なんですか、それとも唯物論的方法なんですか。どっちでもありはしません。」 そして、[ 4 ] で、小林秀雄氏が云うように、「多くの批評家が、マルクス にならって芸術作品の精神化をめがけます」──作品の機能を分析して、「存在」 (作品) の座標を与えよう、と。そして、芸術作品の精神化を図ろうとしたときに、かれらが適用したのは、作品に対して 「(商品 [ の機能 ] の)図式」だった、と。「笑止なことだ」。というのは、そもそも 「前提」 を異 (い) とするはずの他の事態に対して、すでに或る前提で精神化された図式を適用すれば、そぐわぬことは明らかではないか、と。「経済人」 という仮想物を前提にした芸術作品の機能は──たぶん、書店には役立つかもしれないけれど──文芸批評には、なんら、益することはないことは常識でわかるでしょう。 以上の論法を辿れば、帰結は明らかですね──[ 5 ] で曰く、「他から審美的範疇を借りて来いなどという意味ではないのです。芸術作品を一般社会関係に還元する戦の困難を深刻に悟れという事に外ならぬ」、と。もし、ここで、小林秀雄氏が、「審美的範疇を借りて来い」 と言えば、争点を外した [ 逸脱した ] 批評で終わったでしょうね──というのは、もし、「審美的範疇を借りて来い」 と言えば、「作品」 に対して 「商品の図式」 を借用したのと同じ罠に落ちるから [ すなわち、「商品の図式」 が 「審美的範疇の図式」 に代わっただけになってしまうから ]。そうしなかった点が小林秀雄氏の批評家たる正当な感性の作用でしょうね──小林秀雄氏が第一級の批評家と云われる所以です。そして、「芸術作品を一般社会関係に還元する戦の困難を深刻に悟れという事」 は、「反文芸的断章」 (2009年12月16日付) で述べた 「R (作家, 作品) と R (作品, 批評) という ふたつの二項関係の 「絶望的な断層」 のことでしょうね。それらの二項関係のあいだで、作品に対する 「印象を享受する前に、これを思弁的に分析しようと」 して 「作品」 を介した推移律 (単純な法則) を考えることが──芸術的批評は社会的批評に至らなければならないという推移律を考えることが──、「戦の困難を深刻に悟っていない」 ということ。「理も嵩ずれば非の一倍、いらざる学文 (がくもん) し給ふな」。頭が眼を欺かないということが、どれほどに困難なことか、、、。 |
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