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it is free from prejudice and hypocrisy. (James 3-17) |
小林秀雄氏は、かれの エッセー 「文芸批評の科学性に関する論争」 のなかで、以下の文を綴っています。便宜上──後で参照するために──、それぞれの段落に番号を付与しておきます。
[ 1 ]
[ 2 ]
[ 3 ]
[ 4 ]
[ 5 ]
[ 6 ]
[ 7 ]
[ 8 ] 長い引用になりましたが、ひとつのまとまった意見として扱うには、途中で切ることができなかった次第です。 さて、これほど確固たる文体で論点 (論争の中核点) を刻むように──論点の丸太を斧で削 (そ) いで、丸太の中から形を剔 (えぐ) り取るように──綴られると、読み手のほうは、小林秀雄氏の思考を追跡していて とっても疲れるでしょうね [ 少なくとも、私は、疲れました ]。そして、読み終わって感じた点は、「文芸批評の科学性に関する論争」 で述べられている意見が 「マルクス 悟達」 で述べられた意見と一致している、という点です──それを当然だと速断してはいけないでしょうね、その一致が、実は、ふたつの評論 (「文芸批評の科学性に関する論争」 と 「マルクス 悟達」) の根柢を支えている一つの岩盤そのものである、という点が小林秀雄氏の揺るがない逞しさになっていると私は思います。 [ 1 ] で、「芸術家の直観は (直接経験のなかの) 感性的実践である」 ことが確認されています。 [ 2 ] で、対象になっている物事の真理とは 「自己の思惟の現実性と力、その此岸性」 (マルクス のことば) のことが確認されています。そして、それ (自己の思惟の現実性と力、その此岸性) は実践のなかで証明されなければならない、とのこと。 [ 3 ] で──この段落が中核の論になっていると私は思うのですが──、[ 1 ] の論を継承して、「認識は感性的計量である (したがって、実践的活動である)」 ことが確認されています──この意味において、唯物論的だ、と。そして、「思惟は感性的計量の一つの色合いに過ぎない」 ことが確認されています──認識が出発点だ、と。したがって、「対象的真理は、正しく刻々と彼らの思惟に到来している」 という意見が小林秀雄氏の論の中核を成しているでしょう。それ (感性的計量) で掴んだ対象 (の印象) を 「真理」 (彼岸的な 「性質・構成」) として、いかに証明するかという点が [ 2 ] で前振りになっているのでしょうね。 [ 4 ] で、「ゲエテ 的」 というのは、「マルクス の悟達」 のなかで綴られた以下の文を思い起こせばいいでしょう。
精神は精神に糧 (かて) を求めては飢えるであろう。ペプシン が
「一流の作家というものは、一般人から遙かに離れていると同時に一般人に一等近いものです」 という意味は、だれでもが感知している 「事実 (事態)」 を、一流の作家は独自の視点 (認識)──「自己の思惟の現実性と力、その此岸性」──で構成して、作品 (事態の写像、あるいは、数学的に謂えば、事実が逆像になるように構成された写像) にする、ということ。小林秀雄氏が 「様々なる意匠」 で綴った文で言い換えれば、「スタンダアル はこの世から借用したものを、この世に返却したに過ぎない」 ということ。
天才とは僅 (わず) かに我我と一歩を隔てたもののことである。 [ 5 ] で、芸術的認識は唯物的であることが確認されて、しかも、芸術家は 「理論的に夢みるとは限らぬ」 ことが注意されています。 [ 6 ] で、「作品は芸術的認識の果実」 であることが確認されています──「果実」 を分析するためには、その前提になっている 「認識」 を外せない、と。そして、「印象」 が多様であるのは当然である、と。この点に関しては、「反文芸的断章」 (2010年 9月23日付) を再読してみてください。 [ 7 ] で、「印象」 (あるいは、「認識」) の過程を冷然と眺めることは主観的ではないことが確認されています。 [ 8 ] で、以上の論を継承して──特に、[ 3 ] を再確認するように──、結論として、「批評の実践の根本前提はたった一つしかないのです。先ず芸術的認識をもて、という事以外にはないのです。ここにあらゆる理論の出発点があるのです」 というふうに小林秀雄氏は締め括っています。かれの論法を跡追いすれば、この結論は、至極当然 [ あきらかな事 ] に思われますね。 現実的事態に接触した感性が なんらかの直観 (あるいは、認識とか着想) を得て、その直観 (あるいは、認識とか着想) を証明する、こういう振る舞いは、われわれが 「考える」 ときにやっている行為であって至極当然の行為でしょう。そして、小林秀雄氏の意見は、批評において、芸術的認識を欠落した 「科学性」 など存在しえない、という極々当然の結論です。しかし、この当然のことが、「概念」でいっぱいになった頭には、なかなか、難しいのかもしれない。というのは、対象を正確に観る前に、すでに頭のなかにある知識が対象に対して 「型」 を象嵌 (ぞうがん) してしまう。「考えるな、観よ」 (ウィトゲンシュタイン のことば)──そう謂われれば簡単にわかることばなのだけれど、実感となるには難しいことばですね。 |
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