このウインドウを閉じる

it is free from prejudice and hypocrisy. (James 3-17)

 



 小林秀雄氏は、かれの エッセー 「文芸批評の科学性に関する論争」 のなかで、以下の文を綴っています。便宜上──後で参照するために──、それぞれの段落に番号を付与しておきます。

    [ 1 ]
     世に芸術家ほど、直接経験の世界に忠実な人種はありません。
    たとえ、直接経験の世界から逃れて、理論の世界へ、観念の
    世界へ、さまようように見えようとも、それは、ただ外見だけの
    事でして、彼らは、形を、色を、音をまともに常に感じていないで
    は、どんな夢もみる事は出来ないのです。あるいはどんな夢に
    も興味を持たないのです、だから、いつも直接経験の世界から
    一歩も外へは出たがらないのです。(略) 彼らは自分の世界を
    思惟に対する直観の世界だなぞと思ってはおりません、そういう
    対立に何んの意味も認めていやしないのです。彼らに意味がある
    のは、直観は、彼らの感性的実践に他ならぬという点にあります。

    [ 2 ]
     「対象的真理が人間的思惟に到来するか否かという問題は、
    なんら理論の問題でなく、かえって一つの実践的な問題である。
    実践において人間は真理を、即ち、自己の思惟の現実性と力、
    その此岸 (しがん) 性を、証明せねばならぬ。(略)」。これは、
    マルクス の 「フォイエルバッハ に関する テエゼ」 中の有名な
    言葉です。

    [ 3 ]
     彼らは、人間思惟が、彼らの感性的計量中の一つの色合い
    に過ぎぬ事を素直に認めております。彼らには、対象的真理
    は、正しく刻々と彼らの思惟に到来しているのであります。
    彼らの認識が、実践的活動であるという理由で、この間の問題
    は解決されているのです。人間認識とは、感性的計量であると
    という事を確信している点で、彼らの頭は、常に唯物論的に
    働いています。

    [ 4 ]
     もっとも世には、色々な人がいる、ことに芸術家といわれて
    いる人々には、わけの解らんような人物がたんといます。実際
    一般人の間に、本当に正直な素朴な心を失っていない底 (てい)
    の人物を捜すことは、芸術家たちの中にほんとうに一流だと思う
    人物を捜すのと同程度に難しい事です。私は確信しております
    が、一流の作家というものは、一般人から遙かに離れていると
    同時に一般人に一等近いものです。一流作家は、根柢において
    みな ゲエテ 的なのであります。

    [ 5 ]
     それはともかく、芸術的認識が、本来唯物的なものである、
    という事は末流作家も逃れる事は出来ない事で、事実、人々は
    最も普通に作品の善悪を判ずるのに、作品の持っている具体性、
    現実性の多少によります。つまりは、作者の、感性的計量の強弱
    とか欠陥とかを予想しているのです。例えば マルクス の文章が、
    彼の 「思惟の現実性と力、その彼岸性」 を明らかに現している
    所以は、彼が、全く芸術家的率直をもって思惟しているからです。
    彼の理論は対象から離れず、あるいはその形式は常に内容を孕
    (はら) んで進展しているがために外なりません。一流作品に
    おいては事情は全く違いません、ただ作家は、理論的に夢みる
    とは限らぬだけの話です。

    [ 6 ]
     作品は芸術的認識の果実です。果実を分析するのに、芸術的
    認識は、その最初の必至の規定です。この規定を疑わなければ、
    印象の多様性は少しも邪魔にはなりません、印象が多様でなけ
    れば何にも始まりはしないのです。(略)

    [ 7 ]
     一体、主観とか客観とかいう言葉も無我夢中で使われている
    言葉中の王様です。われわれが作品を前にして、われわれの裡
    (うち) に起る全反応、あるいは生理的全過程を冷然と眺めるの
    が何が主観的なのですか。それは純然たる客観物です。芸術
    鑑賞にある程度の修練をつんだ人なら、誰でも自分の印象の
    一系列を客観物として眺めております。勿論、この立場は個人的
    立場でありますが、この立場は、社会的立場となんら牴触 (てい
    しょく) 致しません。ただ、社会学的図式を武器としないでこれを
    立場とする立場と牴触するだけであります。

    [ 8 ]
     今更、社会と個人との相互関係を云々する事もいりますまい、
    どちらの立場にたとうと、どうせ言い方が違うだけの事で、人間
    には立場は一つしかないのです。それはともかく批評の実践の
    根本前提はたった一つしかないのです。先ず芸術的認識をもて、
    という事以外にはないのです。ここにあらゆる理論の出発点が
    あるのです。

 長い引用になりましたが、ひとつのまとまった意見として扱うには、途中で切ることができなかった次第です。

 さて、これほど確固たる文体で論点 (論争の中核点) を刻むように──論点の丸太を斧で削 (そ) いで、丸太の中から形を剔 (えぐ) り取るように──綴られると、読み手のほうは、小林秀雄氏の思考を追跡していて とっても疲れるでしょうね [ 少なくとも、私は、疲れました ]。そして、読み終わって感じた点は、「文芸批評の科学性に関する論争」 で述べられている意見が 「マルクス 悟達」 で述べられた意見と一致している、という点です──それを当然だと速断してはいけないでしょうね、その一致が、実は、ふたつの評論 (「文芸批評の科学性に関する論争」 と 「マルクス 悟達」) の根柢を支えている一つの岩盤そのものである、という点が小林秀雄氏の揺るがない逞しさになっていると私は思います。

 [ 1 ] で、「芸術家の直観は (直接経験のなかの) 感性的実践である」 ことが確認されています。

 [ 2 ] で、対象になっている物事の真理とは 「自己の思惟の現実性と力、その此岸性」 (マルクス のことば) のことが確認されています。そして、それ (自己の思惟の現実性と力、その此岸性) は実践のなかで証明されなければならない、とのこと。

 [ 3 ] で──この段落が中核の論になっていると私は思うのですが──、[ 1 ] の論を継承して、「認識は感性的計量である (したがって、実践的活動である)」 ことが確認されています──この意味において、唯物論的だ、と。そして、「思惟は感性的計量の一つの色合いに過ぎない」 ことが確認されています──認識が出発点だ、と。したがって、「対象的真理は、正しく刻々と彼らの思惟に到来している」 という意見が小林秀雄氏の論の中核を成しているでしょう。それ (感性的計量) で掴んだ対象 (の印象) を 「真理」 (彼岸的な 「性質・構成」) として、いかに証明するかという点が [ 2 ] で前振りになっているのでしょうね。

 [ 4 ] で、「ゲエテ 的」 というのは、「マルクス の悟達」 のなかで綴られた以下の文を思い起こせばいいでしょう。

    精神は精神に糧 (かて) を求めては飢えるであろう。ペプシン が
    己れを消化するのは愚かであろう。「私は考える、だが考える事は
    考えない」 と。ゲエテ は鼻唄でわれわれをどやしつける。こういう
    言葉は全く正しい。しかしわれわれは果してこれを覚えて誤らぬか。
    ここに理論と実践との問題の核心があるのである。

 「一流の作家というものは、一般人から遙かに離れていると同時に一般人に一等近いものです」 という意味は、だれでもが感知している 「事実 (事態)」 を、一流の作家は独自の視点 (認識)──「自己の思惟の現実性と力、その此岸性」──で構成して、作品 (事態の写像、あるいは、数学的に謂えば、事実が逆像になるように構成された写像) にする、ということ。小林秀雄氏が 「様々なる意匠」 で綴った文で言い換えれば、「スタンダアル はこの世から借用したものを、この世に返却したに過ぎない」 ということ。
 芥川龍之介氏の言を借りれば、小林秀雄氏の言を以下のように 「解釈」 していいでしょう (「侏儒の言葉」)。

    天才とは僅 (わず) かに我我と一歩を隔てたもののことである。
    只 (ただ) この一歩を理解する為には百里の半ばを九十九里と
    する超数学を知らなければならぬ。

 [ 5 ] で、芸術的認識は唯物的であることが確認されて、しかも、芸術家は 「理論的に夢みるとは限らぬ」 ことが注意されています。

 [ 6 ] で、「作品は芸術的認識の果実」 であることが確認されています──「果実」 を分析するためには、その前提になっている 「認識」 を外せない、と。そして、「印象」 が多様であるのは当然である、と。この点に関しては、「反文芸的断章」 (2010年 9月23日付) を再読してみてください

 [ 7 ] で、「印象」 (あるいは、「認識」) の過程を冷然と眺めることは主観的ではないことが確認されています。

 [ 8 ] で、以上の論を継承して──特に、[ 3 ] を再確認するように──、結論として、「批評の実践の根本前提はたった一つしかないのです。先ず芸術的認識をもて、という事以外にはないのです。ここにあらゆる理論の出発点があるのです」 というふうに小林秀雄氏は締め括っています。かれの論法を跡追いすれば、この結論は、至極当然 [ あきらかな事 ] に思われますね。

 現実的事態に接触した感性が なんらかの直観 (あるいは、認識とか着想) を得て、その直観 (あるいは、認識とか着想) を証明する、こういう振る舞いは、われわれが 「考える」 ときにやっている行為であって至極当然の行為でしょう。そして、小林秀雄氏の意見は、批評において、芸術的認識を欠落した 「科学性」 など存在しえない、という極々当然の結論です。しかし、この当然のことが、「概念」でいっぱいになった頭には、なかなか、難しいのかもしれない。というのは、対象を正確に観る前に、すでに頭のなかにある知識が対象に対して 「型」 を象嵌 (ぞうがん) してしまう。「考えるな、観よ」 (ウィトゲンシュタイン のことば)──そう謂われれば簡単にわかることばなのだけれど、実感となるには難しいことばですね。

 
 (2010年10月 8日)


  このウインドウを閉じる