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...but you cannot interpret the signs concerning these times! (Matthew 16-3)

 



 小林秀雄氏は、「おふえりや遺文」 を 「改造」 1931年11月号に寄稿しています。「遺文」 とは 「生前に書いておいた文章 (で現在まで遺存している文章)」 のことで、ここでは 「遺書」 と同義です。「あふえりや」 というのは、オフェリア という人物を指し、シェークスピア 作 「ハムレット」 のなかに登場する ハムレット の恋人です。清純可憐な彼女は、劇中、狂気を装った ハムレット に捨てられて、父も殺され、やがて発狂して小川に落ちて溺死する役柄です。

 小林秀雄氏は、オフェリア の役を演じて遺文を綴っています──オフェリア が綴った遺文ではなくて、小林秀雄氏が彼女の役回りを借りて綴った文です。遺文は、ハムレット 宛で、「ハムレット 様」 で書きはじめられています。その遺文を私が読んで下線をひいた いくつかの文のなかから、さらに、私に迫ってくる文を以下に引用します。

     妾 (わたし) はこんな日が来るのを、前から知っていたの
    じゃないかしら、ひょっとすると生れない前から。何かしら約束
    事めいた思いがします。今までに幾度となく、これとおんなじ
    気持ちになったような気がします。

    (略) 妾はただ何んとも言えないほど悲しい。まるでお魚が
    一匹も棲んでいない海みたいな妾の心が悲しいのです。でも
    悲しいなんて事はなんでもない、ほんとうになんでもあります
    まい。でも悲しくなければ一体妾はどうしたらいいのでしょう、
    ああ、なんだかわけのわからない事を言っています。

    (略) 思い出が楽しいほど、阿呆 (あほう) ではなくなった
    のかしら。いや、いや、何もかにも、・・・・・・妾の惨めな心の
    御機嫌を取っているのかと思えば馬鹿々々しい。今こそ妾は
    やっとわかった気がします。心というものは生き物です、到底、
    人間なんぞの手には合わない変な生き物です、あなただって、
    そうだ。妾だって、そうだ。みんな、知らないうちに、食い殺さ
    れてしまうのです。

     いくら気が違っても、肩から羽は生えてくれなかった、妾は
    やっぱり、この世にいた、この世に引摺 (ひきず) られていた
    のです。何んという穢 (きた) ならしい、情けない事でしょう。

    (略) あとは、夜明けを待てばいいのです。こうして字を並べて
    いれば、その中に夜が明けます。夜が明けたら、夜が明けた
    らと妾は念じているのです。夜が明けさえすればみんなお終
    (しま) いになる。何故って、そうなったんだもの、はっきり、
    そうだと、わかるんだもの、どうぞうまく行きますように。

    (略) どうやら妾は、こうして書いているのが頼りなのでしょう。
    あなたにお話でもしていなければ、どうしていいのか、わからな
    いのでしょう。書くのを止めたら、眼が眩 (くら) んでしまうかも
    わからないし、何が起るかもわからないし、死ぬ事だって出来
    なくなってしまうかも知れない、せっかく、はっきりとお終いに
    しようと思っているのに。夜が明けたら、そう、夜が明けたら、
    それまでは、どうぞ、お喋舌 (しやべ) りが、うまく妾を騙
    (だま) してくれますように、こうして書いている字が、うまく
    嘘をついてくれますように、・・・・・・

     ずいぶん見窶 (みすぼ) らしい希いもあるものだ、こんな奇妙
    な希いを持つために、今まで暮して来たのだと思えば、ほんとう
    に不思議な気がします・・・・・・ええ、ええ、妾は何んにも信じて
    いませんとも。どんな希いだって、持たされてみれば、おかしな
    ものだ。何か希いのある人は仕合せです。仕合せな人は、みんな
    おかしな顔をしています。あなたにしても、誰にしても、別に妾
    よりましな希いを持っているわけではない、何もかも空しい、(略)

     ああ、この世は空しい、・・・・・・それは、あなたの御言葉で
    もじゃない、あなたのように気難 (きむづ) かしいお顔をして
    お使いになる、言葉じゃない。誰の言葉でもない、人がいくら
    使っても、使い切れない風のような、風のように何処にでも
    あるような、何んの手応 (てごた) えもないような、得体の
    知れない言葉なんです。こんなしようもないくらい易しい、変哲
    のない想いが、他にあるでしょうか。ほんと言えば、妾には
    わかり過ぎていた事だったのです。だから、みんなが妾につらく
    当ったんです。そして妾はへまばかりして来たのです。ああ、
    それに違いない。何んというお芝居でしょう。何んと沢山な役者
    がこんがらかっていて、みんな何んという顔だろう。人間なんぞ
    は一人もいない、ええ、妾は、逃げます、妾に役は振られては
    いません、二度と帰ろうとは思いません。幽霊ばかりが動いて
    いる、何んの心残りがあるものか。

     ・・・・・・いくら言っても同じ事です。手応えはない、水のよう
    に、風のように、妾は何処に行けばいいのかしらん、・・・・・・
    夜が明けたら、いや、いや、そんなに急ぐ事はない、妾はこうして
    書いている方へ行けばいい、書いている方へはこんで行かれれ
    ばそれでいい、でも何を書いたらいいのだろう。・・・・・・言葉は
    みんな、妾をよけて、紙の上にとまって行きます。・・・・・・一体、
    何んだろう、こんなものが、・・・・・・こんな妙な、虫みたいな
    ものが、どうして妾の味方だと思えるものか。妾は、もっと確か
    な顔をしたものにも、幾度も、裏切られて来た、例えば、・・・・・・
    飽き飽きしました。(略)

     生きるか、死ぬかが問題だ、ああ、結構なお言葉を思い出し
    ました。問題をお解きになるがいい、あなたのお気に召そうと
    召すまいと、問題を解く事と、解かない事とは大変よく似ている。
    気味の悪いほど、よく似ています。いいえ、この世で気味の悪い
    事といったら、それだけだ。あとは、何んの秘密もない人の世
    です。あなたの難しいお顔だって、ほんの一 (ひ) とこまの絵
    模様だ、何んと仕合せなお顔でしょう。その仕合せなお方に、
    可愛がられて、捨てられて、・・・・・・どうせ、妾は子供なんです。
    何んにも知らない子供です、(略)

    (略) 無邪気が、どんなに悲しいものだか御存じなければ、
    無邪気だ、とおっしゃったって詮ない事だ。いじめられる人
    が、どんなに沢山のものを見ているのか、おわかりなければ、
    それはまた別の事です。無邪気な頭だって、込み入ってい
    ます。大変な入り組み様をしています。(略)

     でも、もしかしたら、あなたは何から何まで知っていらした
    のかもわからない。あなたは、そんな迂闊 (うかつ) な方
    じゃない、きっと、みんな御承知だったに違いない。(略)
    知り過ぎて、何もかも知り過ぎて、あたしたちはみんな滅茶
    苦茶にしてしまったのか。いえ、いえ、恋しい人の事を誰が
    ぼんやりしていられよう。(略)

     何もかもから遠く来て、何一つ欲しがるものもなくなった妾
    の心が、こんなに騒がしいものとは知らなかった。打っちゃっ
    ても、打っちゃっても、ぼんやりする行手にはどうしても妾の
    知らない妾がいます。(略) これが、一人ぽっちの正体なん
    でしょう。一人ぽっちでいる事は、一体がうるさい事なんで
    しょう。

    (略) みんな知っている。隅から隅まで知っているあの風景が、
    どうぞ、そのままでいるように、何一つ壊れないでいるように。

 一読して、切々した──否、鬼気迫る──思いが感じられますね。ハムレット を 「文学 (あるいは、芸術)」 として見立てれば、小林秀雄氏が じぶんを オフェリア と同一視 (identified) して綴った思いは、「批評家失格」 で記した気持ちと完全に一致しているでしょう──言い換えれば、「おふえりあ遺文」 は、「批評家失格」 で述べた考えかた・気持ちを手紙形式で綴った、と謂っていいでしょうね。

 小林秀雄氏が オフェリア に託して吐露した思いは、私が 10数年来 仕事 [ TM を作ること ] において抱いてきた思いに重なってきました──私の思いは、「反 コンピュータ 的断章」 の エッセー (2010年10月16日付および2010年10月23日付) に綴りました。だから、私は、「おふえりあ遺文」 を読んだときに、他人事と思えなかった。

 「批評家失格 T」 および 「おふえりあ遺文」 は、「小林秀雄 初期文芸論集」 (岩波 クラシックス 32、岩波書店) に収録されています。「おふえりあ遺文」 を収録した編集者の判断に対して私は賛辞を呈します──小林秀雄氏が自ら選んだのかもしれないのですが。

 
 (2010年10月23日)


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