小林秀雄氏は、「批評について」 のなかで以下の文を綴っています。便宜上──後で参照するために──、それぞれの段落に番号を付与しておきます。
[ 1 ]
(略) もし文学というものも人間の一種の遊戯だとみるならば、
これはまた、なんと凝るにむつかしい従ってもとのとれ難い遊戯
だろう。骨折り損のくたぶれ儲 (もう) けという事がある。これ
は骨さえ折れば、悪くしたってくらぶれ位は儲かるという意味で
ある。現実的な骨折りをすれば、くたぶれたって現実的な内容を
もっている。その内容はいつも教訓に溢れている。では、くたぶれ
さえも儲からないのが文学であるか。そうらしい。はっきりそうだ
と答える位の気組みがなければ、飛んでもない目に会うと私は
思っている。
[ 2 ]
文学ぐらい、その狂気や絶望や陶酔を人々にわかつ事をおしむ
遊戯はない。文学というものは人々に何ら実質ある感動を与えず、
しかも人々を酔わせる事が出来る。偏 (ひとへ) に文字という
漠然たる記号のしわざである。当人一 (い) っぱし文学に凝った
つもりでいて、何んの生ま生ましい糧 (かて) もみつけることが
出来ず、しかも空腹を感じない。いっそ悲惨というべきではないか。
[ 3 ]
私はこういう悲惨を、今日の同人諸雑誌で眺める。なんという
文学に対する気組みの薄弱さだろう、情熱の払底だろう。あるいは
これは今日知識人の相を、あからさまに語っておるのかも知れない
が、私はそういう一般的な見方を好まない。沢山の理屈で厚くなった
人々の面の皮に、抽象的言辞をなげつける愚を私はよく知っている。
(略) 批評という領域は文学のうちで最も陥穽 (かんせい) に富ん
だ、落ちてもちっとも痛くない陥穽に富んでいるからである。従って
この領域を彷徨 (ほうこう) する軽薄人の悲惨は、作家の悲惨を
凌 (しの) ぐとみえるからである。
[ 4 ]
(略) 気組みを言ったところで、批評文だって自分の書くもので
ある以上自分の立派な作品でなければならぬというごく当たり前
の心掛けだが、こんな当たり前な心掛けすら私は今日の同人諸
雑誌の批評文につける事が出来ない。(略)
[ 5 ]
(略) どれをみても何んという愛情のなさであろう。ここにいう
愛情とは、誤解してはいけない。他人を賞める事ではない。この
文章は自分の手になったものだという確たる自覚をいうのである。
いかにも愛情がない、批評も自分の作品だと可愛がってる人が
ない。読んでも赤の他人だと思う。私に赤の他人の考えが述べて
あるからではない。書く当人が己れの書く処に赤の他人でいる
からだ。
[ 6 ]
人々は批評という言葉をきくと、すぐ判断とか理性とか冷眼とか
いうことを考えるが、これと同時に、愛情だとか感動だとかいう
ものを、批評から大へん遠い処にあるもののように考える、そう
いう風に考える人々は、批評というものについて何一つ知らない
人々である。
[ 7 ]
理智は アルコオル で衰弱するかも知れないが、愛情で眠る
事はありはしない。むしろ普段は眠っている様々な可能性が
目醒めるとも言えるのだ。傍目 (はため) には愚劣とも映ずる
ほど、愛情を孕 (はら) んだ理智は、覚め切って鋭いもので
ある。こういう事を、単なる逆説的言辞と嗤 (わら) い去るのが、
世間の常識だが、この常識のいつもの手にかかり、各人内奥
(ないおう) の経験がちょろりやられてしまうのである。常識
というもので汚れるくらいやさしい事はない、ぼんやりと年を
とって行けば充分なのである。それを早く世間ずれがしたい
ものだと周章 (あわ) てている。
[ 8 ]
批評で冷静になろうと努めるのはいい、だが感動しまいと務め
る必要がどこにある。一体冷静に構えるぐらいわけのない事は
ない。ただ他方を向いただけでも冷静面ぐらいは出来るので
ある。わけはないぐらいな問題ならまだよいが、冷静面に慣れ
てくれば、感動の味わいなどを忘れてしまう。忘れていよいよ
批評家の習練を積んでいるつもりになる。作品から人々がほんと
に得をするのは作品に感服した場合に限るので、とやかく批評
などしている際に、身になるものは事実なんにも貰っていやしない
のである。私は人の文の文章を読み、作者がそれを書いて何ん
の得になっているのかいないのかという事をよく考える。条理
整然とよく書いてあるが、当人一体何んの得になっているのか、
というような批評文に出会うと、彼の書く時の顔つきなど想像
して、もっとも顔つきという問題は難問題だが、ともかく他人事
(ひとごと) とは思われず侘 (わび) しい心持ちになる。(略)
小林秀雄氏が 「批評について」 で述べている意見は、本 ホームページ 「反文芸的断章」 のなかで いままで引用してきた かれの エッセー を読んでいれば、すんなりと入ってくるでしょう。[ 1 ] と [ 8 ] は、矛盾しているように思われるのですが、[ 8 ] のなかで使われている 「得」 という語は、「対象 (テーマ) に真摯に向かいあって起こる作用・反作用のなかで──すなわち、じぶんが真摯に関与して──じぶんが体感して得たこと」 という意味でしょうね。したがって、[ 1 ] と [ 8 ] は矛盾しない。逆に、「得になっていない」 という意味は、「じぶんが コミット (give oneself fully into) していない、白々しい状態なので、なんら、作用も反作用も生じていない」 ということでしょうね。この点については、かつて、「反文芸的断章」 (2010年 7月16日付) で私はじぶんの思いを述べたので、再読してみてください。
さて、[ 1 ] は、かれの エッセー 「批評家失格 T」 で吐露されている気持ち (自嘲)──「やさしい事がつまらなくなって難しい事が面白いなんて地獄だぜ、元も子もすっちまうのも知らないでさ。」──に通じていますね。そして、かれが 「文学は絵空ごとか」 を執筆したときに底辺に置いていた気持ちでしょうね──小林氏が 「文学は絵空ごとか」 の最後に引用した コクトオ のことば、「ものを書く馬鹿々々しさは はっきり感じている。だから私たちは黙っていないのだ」 のなかで、「だから」 の意味が、小林秀雄氏の覚悟を代辯しているでしょう。
ちなみに、小林秀雄氏が [ 1 ] で述べている覚悟は──「くたぶれさえも儲からないのが文学であるか。そうらしい。はっきりそうだと答える位の気組みがなければ、飛んでもない目に会う」 という覚悟は、「文学」 を 「モデル の規則作り」 に置換すれば──、私も TM (T字形 ER手法の改良版) を作るときに つねに抱いていた覚悟です。今回 引用した 「批評について」 は、「文学」 とか 「批評」 を 「モデル」 という語に置換すれば、「反 コンピュータ 的断章」 の テーマ に どんぴしゃ なのですが、、、。
[ 2 ] および [ 3 ] は、いわゆる 「文学青年」 が陥る罠を一撃に打ち抜いていますね。ウェブ 上で批評家づらをして 本人一っぱしに気の利いた コメント を綴っているつもりの輩 (やから) も同類でしょうね──ただし、私は その類に入らない (ということにしておきます [ 笑 ] )、というのは、私は、作家たちの文を私の人生 (実感) のなかで読み取ろうとしているだけだから。「落ちても ちっとも痛くない陥穽に富んでいるからである」 という言いかたは、三島由紀夫氏は以下のように言っています(「裸体と衣裳」)。
ボクシング の試合を見て現実の喧嘩と混同する観衆の無邪気
な熱狂と同じものが、今日素人小説家の無数の輩出を惹き起こ
してゐる。ボクシング なら叩かれれば痛いから自分の非にすぐ
気がつくが、かういふ連中は痛さを知らないから始末がわるい。
[ 4 ] および [ 5 ] が 「批評について」 の主張でしょうね──すなわち、「愛情」 が 「作品」 の前提である、と。そして、[ 6 ] [ 7 ] では、「愛情」 を 「批評 (すなわち、思考)」 から離してはいけないことが述べられています──「愛情を孕んだ理智は、覚め切って鋭い」 と。上述した 「反文芸的断章」 (2010年 7月16日付) のなかで、私は以下の文を綴っています。
他人 (ひと) が気づかなかった隠れた性質・構成を発見する
のが 「愛」 でしょうね。それ (愛) を 「情熱」 と云っていいで
しょう。ただ、「情熱」 は、対象の美しさだけを発見するのでは
ないのであって、美しさと同時に醜さも発見するかもしれない
、、、。他人 (ひと) には見えない物が見えすぎるというのは
不幸なことなのかもしれない。
「愛」 を注いで くたぶれ、「愛」 ゆえに 「不幸」 を感じて くたぶれ、「くたぶれさえも儲からない」 のが文学である、という覚悟がなければ文学に手をだしてはいけないのかもしれない、、、その覚悟を、モデル の規則を作る仕事でも同じように持っていなければ、モデル 作りに手をだしてはいけないことを私は実感してきました。
(2010年11月 1日)