小林秀雄氏は、「現代文学の不安」 のなかで以下の文を綴っています。
[ 1 ]
芥川龍之介の晩年は、詩的精神と散文的精神との抗争に費や
された。彼は同時代のどの作家よりもこの問題を明瞭に考えた
人であったが、彼の抗争は極めて神経的なものであった、その
苦痛もまた神経的なものであった。ところが プロレタリヤ 文学
(というより プロレタリヤ 文学への希望と言った方が目下当って
いる) の出現とともに、この問題は突然強引な解決をみてしまった。
(略)
[ 2 ]
混乱の源もまたここにある。出来るだけ感傷に捕われず、あく
までも自然の弁証法に、素朴に、直截 (ちょくせつ) に、歌を
逃れ、美を逃れ、小説というものを構成しようとするこの精神は、
彼らが己れの苦痛によって獲得したものではなかった。ただ
社会事情の逼迫 (ひつぱく) に強いられた行動の口実たる思想
に過ぎなかったのだ。この思想は正しいかもしれないが、単なる
正しい思想ではなんの自慢にもならない。彼らには思想さえ正しい
とわかれば、これに人間的形式を与えるのはもう無用なのである。
彼らはこの精神を肉化するあらゆる方法を放棄している。彼らは
作家を廃業して理論家として政治家として言う、私にはもっと
ちがった文学がある、と。いつまで文学に恋々としているのだろう。
[ 3 ]
私は如何なる政治形態にも政治家にもあまり信を置かぬ男で
ある。だがそういう男なみの倫理学はもっている。私は諸君の
情熱を少しも嗤 (わら) っていはしないが、諸君を動かす概念
による欺瞞 (ぎまん) を、概念による虚栄を知っている。(略)
社会正義を唱えつつ人間軽蔑を説く、これを私は錯乱と呼ぶの
である。
[ 4 ]
何よりも先ず理論を、態度を、姿態を強請する今日の文学は、
徒 (いたず) らに党派の意匠を競って論争し、現実の実質乃至
は形式に対する鋭敏遅鈍に関しては一切口を噤 (つぐ) んで
いる。こういう時にこそ作家はその独立とその孤独を最も必要と
するのだ。己れを棚に上げた空論が、己れの姿をかくしている時、
そういう時にこそ、作家は各自が手をつくして、その宿命、その
可能性、その欲望を発見しようと努めるべきである。「私たち
には、自分の考えを他人の表現に従って理解する事が無暗に
多すぎる」 と ヴァレリイ は言った。
以上の引用文は、「現代文学の不安」 の最後のほうに綴られている文です。
以上の引用文の論点をまとめれば、以下の 2点になるでしょう。
(1) 頭が目を騙している。
(2) 歌も美もないような小説は、文学ではない。
至極まっとうな意見ですね──以上の引用文は、「様々なる意匠」 「批評家失格」 「物質への情熱」 および 「マルクス の悟達」 を読んでいれば、すんなりと納得できるのではないかしら。逆に言えば、「現代文学の不安」 が それらの作品と対比して、私の気持ちを しかも揺さぶる ちから があるということは、「文体」 の すばらしさ に起因するのでしょうね。ただ、[ 4 ] は、なにかしら訴求力が弱いと私には感じられました──小林秀雄氏の いつもの筆力に比べて弱いと私は感じました。[ 4 ] は、小林秀雄氏の トーン が抜けている。
じぶんの 「宿命・可能性・欲望」 を、社会のなかで、「『じぶんで』 発見しようと努める」 ことは、とても難しい。「じぶんで」 という意味は、当然ながら、「じぶんの感性・思考で」 ということであって、とりもなおさず、「じぶんの ことば で」 ということになるでしょうし、とどのつまり、「じぶんの文体」 で述べるということになるでしょう。私は、いまになって──57歳にして──やっと それができるようになってきたかなと感じている次第です。「個性」 を示すことは それほど難しいことじゃない── idea と belief があれば充分ですが──、しかし、じぶんの 「文体」 を表すということは、とても難しい。しかも、詩的精神を宿した 「文体」 というのは、プロフェッショナル な作家にしか作れないでしょう。「文体」 とは、じぶんの総力の結晶だと謂ってもいいのかもしれない。そして、詩的精神は、だれでもが持っているという訳じゃない。「還 (かへ) らぬ昔、知らぬ行末」 (宿命・可能性) のはざまで翻弄された詩的精神が 「文体」 を持ったとき、文学が生まれるのでしょうね。
(2010年12月 8日)