小林秀雄氏は、「X への手紙」 のなかで以下の文を綴っています。便宜上、それぞれの段落には番号を付しておきます。
[ 1 }
(略) 俺の持っている鏡は無暗と映りがよすぎる事を発見した時、
鏡は既に本来の面目を紛失していた。このささやかな発見が、
どんな苦痛と悪徳とを齎 (もたら) すものであったか、俺に知れ
ようはずはなかった。
[ 2 }
以来すべての形は迅速に映った、俺になんの相談もなく映し
出される形を、俺はまたなんの理由もなく眺めなければならな
かった。なんのことわりもなく カメラ 狂が一人俺の頭の中で
同居を開始した。叩き出そうと苛立つごとに、俺は俺の苛立った
顔を一枚ずつ撮影した。疲れ果てて観念の眼を閉じてみても、
その愚かしい俺の顔はいつも眼前にあった。
[ 3 }
複雑な抽象的な思案に耽 (ふけ) っていようと、ただ単に立
小便をしていようと、同じように カメラ は働く。凡そ俺を小馬鹿
にした俺の姿が同じように眼前にあった。俺にはこの同じように
という事が堪えられなかった。何を思おうが何をしようが俺には
無意味だ、俺はただ堪えず自分の限界を眼の前につきつけられ
ている事を感じた。夢は完全に現実と交錯して、俺は自分のする
事にも他人の言う事にも信用が置けなかった。この世に生きる
とは咽 (む) せかえる雑沓 (ざつとう) を掻 (か) き分けるよう
なものだ、しかも俺を後から押すものは赤の他人であった。さま
よい歩いて夜が来る、きれぎれの眠りは俺にも唯一の休息では
あったが、また覚めねばならぬ眠りとはどうにも奇怪に思われた。
[ 4 ]
俺はこういう自分の経験が、先ず大概の人々には充分に合点
がゆく事だと思わない。こんな風に生きて行く事の不可能を
知っていた。必度 (きつと) 病気というものにきまっている、(略)
[ 5 ]
右側に事件が起っていた時にはなんという事もなく左側を見た。
言おうと思う事とはまるで別の事を言って平気でいた。電車の
なかで突然隣りの男の髪を引っぱりたい欲望が起きて仕方が
ないので彼に話しかけた。自分のすべての言動が俺には同じ
ような意味をもった、つまり俺の眺める、いや否応なく眺めさせ
られる絵に過ぎなかった。人々は勿論俺の精神状態を疑ったが、
まずい事には俺はまたしばしば正気らしく見えたらしい。
[ 6 }
何故約束を守らない、何故出鱈目をいう、俺は他人から詰られ
るごとに、一体この俺を何処まで追い込んだら止めてくれるのだ
ろうと訝 (いぶか) った。俺としては、自分の言語上の、行為上
の単なる或る種の正確の欠如を、不誠実という言葉で呼ばれる
のが心外だった。だがこの心持ちを誰に語ろう。たった一人で
いる時に、この何故という言葉の物陰で、どれほど骨身を削る
想いをして来た事か。今更他人からお前は何故、と訊ねられる
筋はなさそうなものだ。自分をつつき廻した揚句 (あげく) が、
自分を痛めつけているのかそれとも労 (いたわ) っているのか
けじめもつかなくなっているこの俺に、探るような眼を向けた
ところでなんの益がある。俺が探り当てた残骸を探り当てて
一体なんの益がある。
[ 7 ]
俺は今でもそうである。俺の言動の端くれを取りあげて (言動
とはすべて端くれ的である)、俺について何か意見をでっち上げ
ようとかかる人を見るごとに、名状しがたい嫌悪に襲われる。
和 (なご) やかな眼に出会う機会は実に実に稀である。和やか
な眼だけが恐ろしい、何を見られているかわからぬからだ。和や
かな眼だけが美しい、まだ俺には辿りきれない、秘密をもっている
からだ。この眼こそ一番張り切った眼なのだ、一番注意深い眼な
のだ。(略) 悧巧そうな顔をしたすべての意見が俺の気に入らない。
(略)
[ 8 ]
俺は自分の感受性の独特な動きだけに誠実でありさえすればと
希 (ねが) っていた。希っていたというよりもむしろそう強 (し) い
られていたのだ。文字通り強いられていたのだ。強いられている
だけで俺は充分だった。誠実という言葉にそれ以上の意味をなす
りつける事は思いもよらなかった。(略)
これらの引用文のあとにも、「X への手紙」 の文は続くのですが、きょうは、これらの引用文を対象にして私 (佐藤正美) の考えを述べてみたいと思います。
上に引用した文のなかには、「志賀直哉論」 のなかで綴られた文が再録されています──「探るような眼」 という文が そうです。上に引用した文に対する私の読後感は、「批評家失格 T」 「志賀直哉論」 および 「おふえりあ遺文」 で述べられた小林秀雄氏の想いが べつの言いかたで綴られているという所感でした。それらの作品は、同じ作家が綴っているのだから、作家が じぶんの想いに誠実であれば、同じ タッチ (筆づかい) になるのは自然でしょうね。
さて、「X への手紙」 は、作品として、「小説」 の ジャンル に入れられています。ただ、私は、この作品を読んだときに、有島武郎氏の作品 「惜しみなく愛は奪う」 に近い性質を感じました。ただし、私は、ここで、「X への手紙」 に対する作品論を述べるつもりはないのであって──作品論を述べるほどの文学的知識は私にはないので──、この作品が私にとって いかなる作用を及ぼしたか を考えてみたいのです。
小林秀雄氏が綴った想いは、たとえ、「小説」 という形であっても、有島武郎氏の 「惜しみなく愛は奪う」 で述べられた真摯な・誠実な意見と同じように、真摯な・誠実な 「告白」 だと私は感じています──その 「告白」 が かれの実体験であろうがなかろうが、かれは じぶんの感じた思いを真摯に・誠実に語っていると感じています。そして、彼が吐露した想いは、まさに、私の実感を代辯してくれています。私は 「X への手紙」 を読んでいて、じぶんの 「告白」 を読まされているような気持ちになっていました──かれの天才は、想いを綴る 「文体」 を持っていますが、「文学青年」 にすぎない私には、その才がないという違いがありますが。
文学を愛し文学に対して真摯に向きあった 「文学青年」 であれば、上の引用文で述べられた想いと同じ所思を実感してきたのではないかしら。勿論、それぞれの作家には それぞれの 「個性」 があるので、或る作家に共感しても他の作家には反感を覚えるのは自然の性質です──私のことを言えば、有島武郎氏・川端康成氏・三島由紀夫氏・小林秀雄氏・亀井勝一郎氏に共感しても、他の作家には それほど共感しないし、嫌悪さえ感じる作家もいます。そして、たとえ、文学史のなかで高く聳え立つ大作家であっても、私は共感を覚えない。言い替えれば、或る作家に共感を覚えるということは、じぶんの性質 (感性・思考) にとって、その作家が同質だからでしょうね。いわゆる 「肌があう (波長があう)」 ということ。「批評の対象が己れであると他人であるとは一つの事であって二つの事でない」 (「様々なる意匠」、小林秀雄)。
[ 1 ] において、「無暗と映りすぎる」 鏡は、べつの ことば で謂えば、「感性」 ということでしょうね。「作家」 (あるいは、「文学青年」) を名のるであれば、かならず、この鏡を じぶんのなかに持っているはずです。そして、鏡に写る像を ひとは意識して止めることができない。この鏡に悩まされない 「文学青年」 はいないはずです。もし、この鏡に悩まされない 「文学青年」 がいたとしたら、写りの悪い像を理屈で象嵌 (ぞうがん) しているにすぎない紛 (まが) い物でしょう。写像を意識的に止めることができたならば、いかほどに安らぐことができるか。その想いを [ 2 ] から [ 5 ] で小林秀雄氏は吐露しています。私も、この鏡に ずいぶんと悩まされて来ました──今も、悩まされています。しかも、この鏡は、「愚かしい俺の顔」 を いつも写している。
[ 6 ] において、写像と思考を一致させることの難儀を小林秀雄氏は告白しています。「この俺に、探るような眼を向けたところでなんの益がある。俺が探り当てた残骸を探り当てて一体なんの益がある」。感性が写した物に対して思考が反応する。そして、くたびれるまで考える。頭脳のなかで思考 (反応の パルス) が いかほど烈しく走っても、思考は ことば という入れ物に託さなければ、感性の写した物を形にすることができない。言語の もどかしさ (正確さの欠如) を感じない 「文学青年」 はいないでしょう。「俺が探り当てた残骸」 を探り当てようとしている他人の ことば は、私 (佐藤正美) のような三流の 「文学青年」 の眼にも当に見え透いている。
[ 7 ] において、この鏡が写す物を そのままに観ることのできる 「和やかな眼」 を小林秀雄氏は畏敬しています──志賀直哉氏の眼が そうであったことを小林秀雄氏は 「志賀直哉論」 で述べています。私は、志賀直哉氏の作品に共感できないのですが、私にとって亀井勝一郎氏の眼が そうです──ただ、亀井勝一郎氏の眼は、慈愛に満ちて美しいのですが、浪漫的な陰りが幾何 (いくばく) かあると思います。
[ 8 ] において、小林秀雄氏の意見は、私の実感 (生きかた) を代辯してくれています。感性に誠実であることしか私には生きかたがわからない──というか、「そう強いられていた」。およそ 「文学青年」 を名のるひとであれば、そう感じているでしょう。しかし、その感性が私を苦しめる。感性を意識的に止めることができれば、いかほどに安らげることか、、、。
(2010年12月23日)