小林秀雄氏は、「X への手紙」 のなかで以下の文を綴っています。
(略) 俺は懸命に何かを忍んでいる、だが何を忍んでいるのか
決してわからない。極度の注意を払っている。だが何に対して
払っているのか決してわからない。君にこの困憊 (こんぱい)
がわかってもらえるだろうか。俺はこの時、生きようと思う心の
うちに、何か物理的な誤差のようなものを明らかに感ずるので
ある。俺はこの誤差に堪えられないように思う。俺は一体死を
思っているのだろうか、それとも既に生きてはいないのだろう
かと思う。(略)
言うまでもなく俺は自殺のまわりをうろついていた。このよう
な世紀に生れ、夢みる事の速かな若年期に、一っぺんも自殺を
はかった事のないような人は、よほど幸福な月日の下に生れた
人じゃないかと俺は思う。俺は今までに自殺をはかった経験が
二度ある、一度は退屈のために、一度は女のために。俺はこの
話を誰にも語った事はない、自殺失敗談くらい馬鹿々々しい話
はないからだ、夢物語が馬鹿々々しいように。力んでいるのは
当人だけだ。大体話が他人に伝えるにはあんまりこみ入りすぎ
ているというよりむしろ現に生きているじゃないか、現に夢から
覚めてるじゃないかというその事が既に飛んでもない不器用な
のだ。俺は聞手の退屈の方に理窟があると信じている。
(略) だが、この苦しかったには相違なかったが、徹頭徹尾嘘
っぱちだった愚かしい経験によって、腹に這入った事がある。
自殺してしまった人間というものはあったが、自殺しようと思って
いる人間とは自体意味をなさぬ、と。(略) 凡そ明瞭な苦痛の
ために自殺する事は出来ない。繰返さざるを得ない名づけようも
ない無意味な努力の累積から来る単調に堪えられないで死ぬ
のだ。死はいつも向うから歩いて来る。俺たちは彼に会いに出
掛けるかも知れないが、邂逅 (かいこう) の場所は断じて明
(あか) されてはいないのだ。
俺はだいぶ早口に喋っているようだ。俺に言葉を選ぶ暇がない
事を許し給え。兎 (と) も角 (かく) も俺は生きのびた。そうだ
兎も角もだ。兎も角もなどと、なんとうまい言葉を人間は発明した
ろう。要は現在が語り難いように過去も語り難い、殊に精神の
うちの出来事は。(略)
さて、以上の文が、小林秀雄氏の実体験に基づいた告白なのかどうかは私の興味を惹かないのですが、そこに述べられていることは私の興味を ひどく惹きました。ただ、これらの文に対して私が意見を述べれば、様々な憶測を生んでしまう危険性が高いので、私は、今回、私の意見を控えます。
いま、フッと感じたのですが、小林秀雄氏の文体は、有島武郎氏の 「翻訳調な」 文体──手紙形式の小説 「宣言」 の文体とか、エッセー 「惜しみなく愛は奪う」 の文体──を こなれた・リズムのいい 「江戸っ子調な」 文体にした感がありますね。
(2011年 1月 1日)