小林秀雄氏は、「X への手紙」 のなかで以下の文を綴っています。
俺はよく考える。俺たちは皆めいめいの生ま生ましい経験
の頂に奇怪に不器用な言葉を持っているものではないのだ
ろうか、と。ただそういう言葉は当然交換価値に乏しいから
手もなく置き忘れられているに過ぎない。(略) とまれ小説
を書こうと思って書かれた小説や、詩を書こうと思って書か
れた詩の氾濫 (はんらん) に一切の興味を失ってしまった
今、俺は他人のそういう言葉が、俺の心に衝突してくる極め
て稀れな機会だけを望んでいると言っていい。
言葉というものは、人々の頭に浸透 (しんとう) して限りなく
多様な抵抗を受ける電流のようなものだ。この抵抗こそ言葉と
いうものの現実的な意味である。抵抗を少しも受けない言葉は、
必ずしも人間の口から発音される必要はあるまい。俺は信ずる
が、いわゆる公式というものは単に退屈なだけではない、そんな
ものは全然この世にない。あったところでいずれ市場で買える
代物だ、しかも飛んでもない安物でなければ、無暗な贅沢品に
きまっている。こんな事を言うと或る人には誇張と響くだろう、
比喩と取られるかもわからない。だが俺にはそんな洒落気は
ない。公式などというものはこの世にない、断じてない、これこそ
俺が重ねて来た結論だ。久しく頭の中にはあったが、近頃に
なってやっとこれが言い切れる。そして今まで何一つして来な
かったが多少は成熟して来たことを感ずる、併せて多少の疲労
をと言いたいが、それは少々馬鹿々々しい。
上に引用した文は、「言葉」 に対する小林秀雄氏の考えかたを綴った文でしょうね。そして、「言葉」 に限らず、かれの考えかたの根柢に存在する礎石と謂っていいでしょう──尤も、われわれが感じ考えたことは 「言葉」 で伝えられるがゆえに、「言葉」 に対する態度が礎石になるのですが。したがって、「特殊風景に対する誠実主義」 しか かれは信じていなかった、と私は思います。そして、その態度に対して私は共感を覚えますし、私も、それ (「特殊風景に対する誠実主義」) を信奉しています。「公式主義」 を私は本 ホームページ (「反 コンピュータ 的断章」 および 「反文芸的断章」) で非難してきました。
他人 (ひと) の言に対して、「要するに こういうことだ」 と速断して レッテル を貼って わかったつもりになっている小悧巧な ヤツ らを私は わんさと観てきました。あるいは、すでに言い古されてきたことを少々気の利いた ことば に言い替えて、物事をわかったつもりになっている小悧巧な ヤツ らをわんさと観てきました。そういう小悧巧な ヤツ らに対抗するには、かれらの CPU が演算しにくい文字列を使えばいい──私の文が限りなく多様な抵抗を与える電流であればいい。すなわち、相手が デジタル に演算できないような 「文体」 を私が持っていればいい。そういう文体を持つには、私の生きかたが 「市場で買える代物」 であってはいけない。そして、逆に言えば、そういう代物ではないということは、私の生きかたが社会のなかで 「下手な」 生きかたでしょうね。じぶんで そういうふうに言うのは気ざわりな センチメンタリズム と取られるかもわからないけれど、私には そんな洒落気・戯 (ざ) れ気はない。それぞれの人たちのあいだには、似たような体験はあっても、同じ体験はないという当たり前のことを外さなければいいだけのことでしょう。小悧巧な ヤツ らが 「個性」 を唱えつつ 「公式」 を信奉している様 (さま) は、錯乱でしかない──錯乱を悧巧と思い込むのは馬鹿げている。
(2011年 1月16日)