小林秀雄氏は、「X への手紙」 のなかで以下の文を綴っています。
超人という言葉に人間という言葉がとって代った。人間という
符牒 (ふちょう) を社会という符牒が追い抜いた。ここに何か
深い仔細があるのなら、(略)
(略) 誰も彼もが歴史の波に流される、しかし誰も彼も自分の
浮力は守っているものだ。
個人主義という思想を俺は信用しない、凡その明瞭が思想と
いうものが信用できないように。だが各人がそれぞれの経験に
固着した他人には充分に伝え難い主義を抱いて生きていると
いう事は、信じる信じないの問題ではない、個人の現実的状態
だ。(略)
整理する事は解決する事とは違う。整理された世界とは現実
の世界にうまく対応するように作り上げられたもう一つの世界
に過ぎぬ。俺はこの世界の存在をあるいは価値を聊 (いささ)
かも疑ってはいない、というのはこの世界を信じた方がいいの
か、疑った方がいいのか、そんな場所に果てしなく重ね上げら
れる人間認識上の論議になんの興味も湧かないからだ。俺の
興味をひく点はたった一つだ。それはこの世界が果して人間の
生活信条になるかならないかという点である。人間がこの世界
を信ずるためにあるいは信じないために、何をこの世界に附加
しているかという点だけだ。この世界を信ずるためにあるいは
信じないために、どんな感情の システム を必要としているか
という点だけだ。一と口で言えばなんの事はない、この世界を
多少信じている人と多少信じていない人が事実上のっぴきなら
ない生き方をしている、丁度或るのっぴきならない一つの顔が
あると思えば、直ぐ隣りにまた改変し難い一つの顔があるよう
なものだ。俺はこれ以上魅惑的な風景に出会う事が出来ないし
想像する事も出来ない。そうではないか、君はどう思う。
上の引用文において、小林秀雄氏は 「思想」 に対する態度──「思想」 の扱いかた──を述べています。かれは、「君はどう思う」 と訊ねているので、私の意見を述べるならば、「私もそう思う」。
他人 (ひと) には 「絶対に」 伝えきれない思いは、かならず、存在する──ことば で じぶんの思いを すべて 伝えることができるはずもない。それでも、われわれは、じぶんの思いを なんとかして 「正確に」 伝えたいと望んで、ことば を使う。私は、ここで、「ことば と事実」 というような難しい (大きな) テーマ を扱うつもりは更々ないのであって、私が考えてみたい点は、文として記述された 「思想 (あるいは、法則)」 を われわれが──少なくとも、私が──「理解する」 とは どういうことなのかという点です。ひとつの 「思想」 が その臨界点で、どのような ことば (表現) を使ったかという点に私は興味を抱いています。
小林秀雄氏が提起している問題は、「整理された世界」 を信じて それを 「生活信条」 とするために──言い替えれば、「整理された世界」 を信じて、その世界のなかで述べられている考えを借用して物事を 「解決する」 ために──われわれは、「整理された世界」 に対して、どんな感情の システム を導入しなければならないか、ということでしょうね。そして、その世界を多少信じている人と多少信じていない人が、それぞれ、じぶんたちの生活を送っているというのが疑いもない事実である、と。われわれは、その世界を全部肯定も全部否定もできないでしょう。全部肯定に立てば、個人など存在しなくてもいいし、全部否定に立てば、物事を考えることができない──だから、「多少」信じているひともいれば、「多少」信じていない ひともいる。いずれであれ、「整理された世界」 に対して個人が存在している。
われわれは生活者 (あるいは、実務家) の 「常識」 として、「説」 「思想」 に対して、次のように考えているでしょう──科学の 「説」 について謂えば、われわれが研究家 (scientist) でないのであれば、「説」 が true かどうかを証明する責務を負っている訳じゃないのであって、「説」 を 「形ある」 状態にすること、すなわち、「説」 を じぶんの生活のなかで適用して、なんらかの アウトプット を入手することにこそ価値がある、と。文学・哲学の 「思想」 について謂えば、科学の証明に対応するのが その 「思想」 を立てた ひとの生きかたであって、われわれが、その 「思想」 を信じる (あるいは、信じない) 理由は、その ひとの身証になっているかを判断しているのではないかしら。あるいは、じぶんの生きかたに照らして その 「思想」 の信憑性を判断しているのではないかしら。「思想」 そのものに良し悪しはないのであって、その 「思想」 の良し悪しは、その 「思想」 が実際に適用されたときの帰結状態──じぶん (あるいは、「社会」) に及ぼす影響 (今の状態を他の状態に変える作用)──を推測して、われわれは良し悪しを判断しているのではないかしら。
サルトル 氏は、以下のように述べています (「Nausea」)。
My thought is me: that is why I can't stop.
I exist by what I think...and I can't prevent myself from thinking.
この言は、われわれの実感を代辯してくれているでしょう。
さて、ひとつの 「思想」 を二人が信じている場合、二人の 「理解 (あるいは、解釈)」 は同じであるか、さらに、その 「理解」 は、「思想」 を述べた人の言いたかったことと同じであるか──おおかた同じであっても、「かならず」、ズレ ているはずです。なぜなら、その 「思想」 を 「理解」 するために、読み手は、じぶんの 「思想」 (すなわち、じぶんの Frame of Reference) と対比して判断するので。複数のひとたちが、同じ Frame of Reference を持っているはずがない。なぜなら、おのおの べつべつの人生を歩いてきたのだから。「丁度或るのっぴきならない一つの顔があると思えば、直ぐ隣りにまた改変し難い一つの顔があるようなものだ。俺はこれ以上魅惑的な風景に出会う事が出来ないし想像する事も出来ない」。似ている顔はあっても同じ顔はない。
私は、思想の 「解釈」 に興味がない。なぜなら、私は否応なしに私の Frame of Reference で 「解釈」 するしかないので。私の興味は、或るひとが 「思想」 を述べるにあたって、その 「思想」 に収めきれなかった──言い替えれば、ことば で表現し切れなかった──「呻き」 を聴きたいのです。そのひとが対象に真摯に立ち向かって終 (つい) にぶつかった臨界点で、どのような ことば (表現) を使ったのかという点が私の興味を惹くのです。というのは、その点 (臨界点で使われた ことば) にこそ、そのひとの洩らした 「呻き」 を聴くことができるにちがいないから。たとえ、その 「呻き」 の意味を私が掴めないとしても、そのひとの のっぴきならない思いを感じることはできるでしょう。
小林秀雄氏の以下の ことば を思い起こしてほしい。
「犬も歩けば棒にあたるそうだ」 「そりゃあそうでしょう
ともね、あたりますよ、そりゃあ」 と彼は答えた。ここにも
批評の困難がある。
(2011年 2月 1日)