小林秀雄氏は、「X への手紙」 のなかで以下の文を綴っています。
(略) 俺はすべての強力な思想家の表現のうちに、しばしば、
人の思索はもうこれ以上登る事が出来まいと思われるような
頂をみつける。この頂を持っていない思想家は俺には読むに
堪えない。頂まで登りつめた言葉は、そこで殆ど意味を失うか
と思われるほど慄えている。絶望の表現ではないが絶望的に
緊迫している。無意味ではないが絶えず動揺して意味を固定し
難い。俺はこういう極限をさまようていの言葉に出会うごとに、
譬 (たと) えようのない感動を受けるのだが、俺にはこの感動
の内容を説明する事ができない。だがこの感動が俺の勝手な
夢だとはまたどうしても思えない。
正確を目指して遂に言語表現の危機に面接するとは、あら
ゆる執拗 (しつよう) な理論家の歩む道ではないのか。どう
やら俺にはこれは動かし難い事のように思われる。われわれ
の伝統は、西洋の伝統に較べて、この言語上の危機に面接
してただこの危機だけを表現して他を顧みない思索家を、なん
と豊富に持っているかと俺は今更のように驚くのだ。卓抜な
思想ほど消え易い、この不幸な逆説は真実である。消え易い
部分だけが、思想が幾度となく生れ変る所以を秘めている。
俺はしばしば思想の精髄というものを考えざるを得ない。
(略) この世に思想というものはない。人々がこれに食い入る
度合だけがあるのだ。だからこそ、言葉と結婚しなければこの
世に出る事の出来ない思想というものには、危機を孕んだその
精髄というものが存するのだ。
(略) 本当の思想史とは一体何を意味するのか。これは俺を
苦しめる大きな疑問の一つである凡そ真の思想とは本能に
酷似している。これを感得する時は驚くほど簡明だが、これ
を説明しようと思えば忽ち無暗な迷宮と変するものではある
まいかと。これを人間の仕事だと考えればなるほどわれわれ
の手に余る不可能事だが、これが人間の一種の想いだとして
みれば断じて架空事ではない。人の生命の或る現実的な面
である。(略)
私は、前回の 「反文芸的断章」 のなかで、以下の文を綴りました。
私の興味は、或るひとが 「思想」 を述べるにあたって、その
「思想」 に収めきれなかった──言い替えれば、ことば で
表現し切れなかった──「呻き」 を聴きたいのです。そのひと
が対象に真摯に立ち向かって終 (つい) にぶつかった臨界点
で、どのような ことば (表現) を使ったのかという点が私の
興味を惹くのです。というのは、その点 (臨界点で使われた
ことば) にこそ、そのひとの洩らした 「呻き」 を聴くことが
できるにちがいないから。たとえ、その 「呻き」 の意味を私
が掴めないとしても、そのひとの のっぴきならない思いを感じ
ることはできるでしょう。
私の この思いを小林秀雄氏は、プロフェッショナル な作家として もっと正確に説明しています。小林氏が述べているように 「この世に思想というものはない。人々がこれに食い入る度合だけがあるのだ」──或るひとの 「思想」 (「思想」 という ことば を使うのが嫌なら、「思い」 と謂ってもいいでしょう) と面接して、そのひとの 「呻き」 を聴くのであれば、「1 対 1」 の対面しかないだろうし、そのひとの 「思い」 は 「手の中 (うち) の菓 (このみ) を人に与ふる如くに非ず」 (色道小鏡)。だから、小林秀雄氏は、「本当の思想史とは一体何を意味するのか。これは俺を苦しめる大きな疑問の一つである」 と綴っています。
亀井勝一郎氏は、「日本人の精神史」 を執筆しています。その 「精神史」 の根柢になっている執筆態度は、かれの作品 「聖徳太子」 「親鸞」 で明らかにされています──「作品のなかで描かれている人物の思いを 『招魂』 する」 態度を かれは貫いています [ 小林秀雄氏流の言いかたをすれば、「主調低音を聴く」 ということ、徂徠流の言いかたをすれば、「格物致知」 (対象のほうから面貌を現すということ) ]。そして、亀井勝一郎氏の歴史観は、歴史学者とのあいだで論争を起こしました。私は、亀井勝一郎氏に与します。「聖徳太子」 も 「親鸞」 も歴史小説じゃない。亀井勝一郎氏が聖徳太子・親鸞と真摯に向きあった 「思想書」 です。人物の 「思想 (すなわち、思い)」 と向きあうのであれば、亀井勝一郎氏 (そして、小林秀雄氏) の やりかた のほかにないのではないか。小林秀雄氏曰く、
そこらにころがっている物指 (ものさし) を拾い上げて他人
を計るのは私はもっとも失敬な事だと信じている。
(「アシル と亀の子」)
(2011年 2月 8日)