小林秀雄氏は、「X への手紙」 のなかで以下の文を綴っています。
[ 1 ]
大衆はその感情の要求に従って、その棲む時代の優秀な思想
家の思想を読みとる。だから彼らはこれに動かされるというより
むしろ自ら動くために、これを狡猾に利用するのだ。だから思想
史とは実は大衆の手によって変形された思想史に過ぎぬ。そこ
に麗々しく陳列されているすべての傑物の名は、単なる悪い洒落
に過ぎぬのだ。この大衆の狡猾を援助するために生まれた一種
不埒 (ふらち) な職業を批評家というのなら、彼らがいつも
仮面的であるのはまた已むを得ない。
[ 2 ]
遂に、どんな個人でも、この世にその足跡を残そうと思えば、
何らかの意味で自分の生きている社会の協賛を経なければなら
ない。言い代えれば社会に負けなければならぬ。社会は常に個人
に勝つ。思想史とは社会の個人に対する戦勝史に他ならぬ。ここ
には多勢に無勢的問題以上別に困難な問題は存しない。「犬は
何故しっぽを振るのかね」 「しっぽは犬を振れないからさ」。
この一笑話は深刻である。
とても難しい文ですね。これらの文が難しい理由は、社会と対面して社会に対して なんらかの意見を発信する仕事に従事していなければ── ホームページ とか Twitter で、気ままな想いを綴る程度の発信ではなくて、社会という抽象的な、しかし存在しているとみなされている物 [ たとえ、それがわれわれの作った幻であったとしても ] と四つに組んだ体験を持っていなければ──、実感できない文ではないかしら。これらの文は、「X への手紙」 のなか綴られた次の文に対応しているでしょう。
興味をひく点はたった一つだ。それはこの世界が果して人間の
生活信条になるかならないかという点である。人間がこの世界
を信ずるためにあるいは信じないために、何をこの世界に附加
しているかという点だけだ。この世界を信ずるためにあるいは
信じないために、どんな感情の システム を必要としているか
という点だけだ。
私は、TM (T字形 ER法の改良版) を作ったときに、まさに、小林秀雄氏が上で述べていること (引用文の [ 1 ] [ 2 ] ) を実感してきました。[ 1 ] に関して言えば、TM を作るために先人たち──たとえば、リレーショナル・データベース の生みの親である コッド 氏、さらに ウィトゲンシュタイン 氏、ゲーデル 氏、カルナップ 氏、クワイン 氏など──の説を学習して、「思想史」 のなかで まとめられている かれらの説と かれらの原典とのあいだには、埋めがたい 「堀」 があることを つぶさに観てきました。その 「堀」 は、「大衆の手によって」 作られた。「大衆は思想に動かされるというよりむしろ自ら動くために、これを狡猾に利用するのだ」。ひとつの思想と その要約版は、実に べつべつの物だと思ったほうがいいでしょうね。たとえば、プロダクト としての リレーショナル・データベース は、バージョンアップ のなかで、いかほどに コッド 論文を骨抜きにしてきたか。「この大衆の狡猾を援助するために生まれた一種不埒 (ふらち) な職業を コンサルタント や ベンダー というのなら、彼らがいつも仮面的であるのはまた已むを得ない」。だから、「マニュアル」 に記述されている程度のことを述べて いっぱしに専門家と称しているひとを私は反吐がでるくらい嫌悪しています。
[ 2 ]──「遂に、どんな個人でも、この世にその足跡を残そうと思えば、何らかの意味で自分の生きている社会の協賛を経なければならない。言い代えれば社会に負けなければならぬ。社会は常に個人に勝つ」──に関して言えば、「反 コンピュータ 的断章」 (2010年10月16日 および 2010年10月23日) を読んでください。
「『犬は何故しっぽを振るのかね』 『しっぽは犬を振れないからさ』。この一笑話は深刻である。」──社会を変えた思想であっても、実は、社会が利用した思想なのでしょうね。社会とは、抽象的な概念であるけれど、存在しているとみなされている対象です。この得体の知れぬ対象に向かって、じぶんの思想を発信するということは、ドン・キホーテ が風車に立ち向かった行為に似ている。あるいは、もし、そういう喜劇の主役になりたくないのであれば、「じぶんを (正直に、すなわち正確に) 晒す」 しかない。しかし、じぶんをいかほど正確に晒しても、さきに述べたように、大衆がその思想を利用するには、思想に込められた個人の繊細な想いなど扱い難いので、それを切り落とす。そして、要約された思想が いくばくか伝統につながっていて、しかも社会状態を一歩進めるうえで利用できるのであれば、社会は、それを思想史の陳列棚に並べるのでしょうね。そういう状態は、思想家から観れば、悲劇でしかないでしょう。個人の思想は、小林秀雄氏の言うように、つねに、社会に負ける運命ではないか。思想家が社会を変えようと強く意識しても、思想家は選ばれる側であって、思想を選ぶのは社会なのだから。
陳列棚に並べられた思想を生活の場に戻すには、「どんな感情の システム を必要としているか」。言い替えれば、思想を実感とするためには、いやがおうでも、われわれは 「社会」 (最大公約数的な公式主義) と戦わなければならないのではないか。だから、およそ、思想──あるいは、「ことば」 を扱う領域と云ってもいいかもしれない──と向きあえば、「個人と社会」 という論点を避けることができないのではないか。個人が社会のなかで揮発 (vaporize) することに抵抗している作品を私は好んでいるようです。
私は キリスト 教徒ではないけれど──私は禅を信奉しています──、聖書の次の ことば が いま 私の脳裡を走りました。
Eli Eli lema sabachthani?
(My God, my God, why did you abandon me?)
この悲痛な叫びが、思想の性質を物語っているように私には思われます。
(2011年 2月16日)