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But many who now are first will be last,... (Matthew 19-30)

 



 小林秀雄氏は、「X への手紙」 のなかで以下の文を綴っています。

     社会のあるがままの錯乱と矛盾とをそのまま受納する事に堪え
    る個性を強い個性という。彼の眼と現実との間には、何ら理論的
    媒介物はない。彼の個人的実践の場は社会より広くもなければ
    狭くもない。こういう精神の果しない複雑の保持、これが本当の
    意味の孤独なのである。社会は殻 (から) に閉じこもった厭人
    家や人間廃業者等を少しも責めない、その癖いつも生ま身を
    他人の前に曝 (さら) しているような溌剌とした個性には、無理
    にも孤独人の衣を着せたがる。何故だろう。俺にはこの算術は
    かなり明瞭に思われる。社会は己れを保持するために、一種非
    人間的な組織を持たざるを得ないし、多数の人々がこの機構に
    からまれて浅薄な関係を結び合い、架空な言葉を交換し合う強い
    習慣をどうにも出来ないからだ。社会は人々の習慣によって生き
    る。社会革命とは新しい習慣をあらたに製造することだ。これが
    凡そ習慣というものが気に入らない或る個人の革命を嫌悪する
    所以なのだ。(略)

    (略) だから人間世界では、どんなに正確な論理的表現も、厳密
    に言えば畢竟 (ひつきょう) 文体の問題に過ぎない、修辞学の
    問題に過ぎないのだ。簡単な言葉で言えば、科学を除いてすべて
    の人間の思想は文学に過ぎぬ。現実から立ち登る朦朧 (もうろう)
    たる可能性の煙に咽 (む) せ返る様々な人の表情に過ぎない。
    (略) この一種の表情を命とする人々は、己れの仕事がやくざな
    抽象を土台としている事を知りながら、仕事の結果は反対に人間の
    現実的な体験を直接に暗示しているものでなければならぬと感じて
    いる人々だからだ。この仕事に実際上携 (たずさ) わっていても、
    この苦痛をつぶさに語っている人は極めて稀れだ。(略)

 小林秀雄氏は、「この仕事に実際上携わっていても、この苦痛をつぶさに語っている人は極めて稀れだ」 と綴っていますが、私 (佐藤正美) は、本 ホームページ で、この苦痛を 明け透けに語ってきたつもりです──たとえば、社会が 「凡そ習慣というものが気に入らない或る個人の革命を嫌悪する所以」 については、「反 コンピュータ 的断章」 の2010年10月16日2010年10月23日を読んでみて下さい。そして、六年半に及んで綴ってきた 「反文芸的断章」 の エッセー は、「社会と個人」 (あるいは、通説と自説) の ズレ を明らめようとしてきました。なぜなら、私は、「己れの仕事がやくざな抽象を土台としている事を知りながら、仕事の結果は反対に人間の現実的な体験を直接に暗示しているものでなければならぬと感じている」 文学青年的 エンジニア なので。

 「社会のあるがままの錯乱と矛盾とをそのまま受納する事に堪える個性を強い個性という。彼の眼と現実との間には、何ら理論的媒介物はない。彼の個人的実践の場は社会より広くもなければ狭くもない。」──「強い個性」 には 「現実との間に理論的媒介物はない」 のかもしれないけれど、われわれ凡人が個人的実践を社会のなかでおこなうには、じぶんの感性・思考で、「現実 (事態)」 の しくみ を了承しよう (あるいは、形式的に構成しよう) と試みる。いっぽうで、「社会は人々の習慣によって生きる」。したがって、社会習慣の存続のなかで、個人が じぶんの感性・思考を なんらかの形で具象しようとすれば、かならず、ぶつかる。もし、社会とぶつかるのを怖がって腰がひけるならば、社会のしくみを じぶんが見透かしているつもりになって高階から [ じぶんの意識のなかで ] 見下げていればいい──そして、じぶんは頭がいいので、社会のしくみを見通していると自任して、社会を知ったつもりになっている小悧巧な連中を私は わんさと観てきました。しかし、じぶんが真っ向から ぶつかったこともない社会を わかる訳などないでしょうね。

 頭のなか (じぶんの意見) を文にしてみればいい。文にしてみれば、頭のなかが いかほど見窄 (みすぼ) らしいか顕わになるでしょう。文を観れば、そのひとの ちから はわかる。「だから人間世界では、どんなに正確な論理的表現も、厳密に言えば畢竟 (ひつきょう) 文体の問題に過ぎない」。じぶんの考えを文にしてみて見窄らしさが顕わになったときの言い訳として、「じぶんの考えを この程度にしか綴れなかったけれど、私の言いたいことは、なお、豊富なのだ」 「ことばですべてが言い尽くせる訳もない」 などと言い訳していた小悧巧な ヤツ がいたけれど、言い訳にもならないでしょう──文体と真摯に向きあったことのない盆暗 (ぼんくら) が言う ことば じゃない、過多な自意識の戯 (ざれ) 言にすぎない。

 自説を社会に向かって問うた人たちは、じぶんたちを社会に晒して戦ってきた 「孤独な」 人たちです──社会は、「いつも生ま身を他人の前に曝 (さら) しているような溌剌とした個性には、無理にも孤独人の衣を着せたがる」。そして、私は、そういう 「孤独な」 人たちに共感を覚えます。ちなみに、社会との戦いのなかで、じぶんの前提を疑わないような個性は紛 (まが) い物にちがいない。

 
 (2011年 2月23日)


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