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Human beings cannot live on bread alone,... (Matthew 4-4)

 



 小林秀雄氏は、「X への手紙」 のなかで以下の文を綴っています。

     政治とは理論の仮面を被った一種の賭博である。ここには正当
    な意味で質の問題も量の問題もない。正当な意味で正しさもなけ
    れば嘘もない。或る同じ傾向の感情が政治的に矛盾した様々な
    教義となって現れる。或る一つの政治的教義が、生活的に矛盾し
    た様々な感情を満足させる。

     俺たちは今何処へ行っても政治思想に衝突する。何故うんざり
    しないのか、うんざりしてはいけないのか。社会の隅々までも
    行き渡り、誰もこれを疑ってみようとは思わない。ほんの少しで
    も遠近法を変えて眺めてみ給え。これが、俺たちの確実に知って
    いる唯一つの現実、限りない瑣事 (さじ) と瞬間とから成り立った
    現実の世界に少しも触れてはいない事に驚くはずだ。この思想の
    材料となっている極めて不充分な抽象、民族だとか国家だとか
    階級だとかいう概念が、どんなに自ら自明性を広告しようと或は
    人々がこの広告にひっかかろうと、人間はかつてそんなものを
    一度も確実に見た事はないという事実の方が遙かに自明である。

     政治の取扱うものは常に集団の価値である。何故か (この何故
    かという点が大切だ)。個人の深い関心を持っては政治思想は
    決して成り立たないからだ。ここにこの思想の根本的なあるいは
    必至の欺瞞がある。(略)

 とても難しい文ですね。「政治」 について、小林秀雄氏の考えを 「理解」 しようと思うのであれば、上に引用した文を丁寧に 「解析」 しなければならないのですが、今の私には 「解析」 するのが難しい。私には、「政治」 を 「社会」 というふうに読み替えたほうが了承しやすのですが、「政治とは理論の仮面を被った一種の賭博である」 という文が私の 我がままな 「解釈」──「政治」 を 「社会」 に翻訳する恣意──を拒絶しています。

 「政治」 は 「社会」 を 「政治的教義」 (現制度の革新、将来の豊かな生活) で説得すると考えれば、政治を 「社会と思想」 という組 (関係) で捉えやすい──そう捉えたほうがわかりやすい──のですが、「思想」 ではなくて 「(或る欺瞞を内包した) 教義」 という語を かれが使っている点こそ──だから、かれは 「政治」 を 「理論の仮面を被った一種の賭博である」 と言っているので──「政治」 を 「社会と思想」 の組 (関係) として扱うことはできない。「社会」 と 「思想」 との関係であれば、(前回の 「反文芸的断章」 で述べたように、) かれは意見を すでに述べています。その延長線上に、かれは 「政治」 を見据えていますが、「政治」 を 「(理論の仮面を被った一種の) 賭博」 と云うからには、かれは 「政治」 を 「社会」 [ 個々人の生活を集合的に抽象した概念 ] と同列にはみていないし、「社会」 を形づくるために民衆を説得する 「広告」 とみているようです──少なくとも、「政治思想」 を 「社会から借りたものを社会に返す」 ような蓋然的推論の思想とは見做 (みな) していないでしょうね。言い替えれば、そこでは 「解析」 が意味をなさないということ。

 政治思想 (あるいは、政治的教義) の アウトプット は、具体的な 「国富」 でしょうね──すなわち、物質 (物品)。そして、政治の 「教義」 は、宗教が大衆を蠱惑 (こわく) する 「御利益 (あるいは、奇跡)」 に似ている。

 「政治」 を 「現実なるもの」 とすれば、「宗教」 (あるいは、「芸術」) は 「理想なるもの」 なのかもしれない。たとえば、聖書によれば、悪魔は、キリスト に対して次の試みを迫った。

    汝もし神の子ならば、この石に命じて パン とならしめよ。

 生きるための パン (生活費) がなければ、理想は空語だ、と。「究極の選択」 ですね (笑)。さて、キリスト は、どう応えたか──「人の生くるは パン のみに由るにあらず」。すなわち、キリスト は、ひとの尊厳として 「自由」 を第一義にしています。絶妙な 「対応」 ですね──キリスト の言は、ロジック 上、「反論」 にはなっていないと私は思っています。「生きる」 という現実において、物質的要件 (生活のなかで、いくつかの要件のなかのひとつ) に対して精神的要件 (生活のなかで、いくつかの要件のなかの [ 他の ] ひとつ) でもって応えた。そして、「精神 (自由)」 は、パン の 「対価」 にはならない、と。

 「出 エジプト記」 によれば、モーゼ は、エジプト を出て 「自由」 になった人びとを 「統治」 することに苦悩しました。民衆は、「奴隷」 から 「神の選民」 となったにもかかわらず、「自由」 を活用することができなかった。民衆は、モーゼ に対して、次の非難を浴びせました。

    我ら エジプト の地において内の鍋の側 (そば) に坐り飽くまで
    パン を食らひし時に、エホバ の手によりて死にたらば善 (よか)
    りしものを、汝はこの曠野に我らを導き出してこの全会を飢えに
    死なしめんとするなり。

 「自由」 が パン の対価とされた状態を 「奴隷」 というのでしょうね。神は、かれらに 「自由」 を与えたにもかかわらず、かれらが 「奴隷」 根性に浸っている状態を観て怒って、「十戒」 を示しました。そのために、「自由」 が 「(神への) 義」 の対価とされた状態を 「宗教」 というのでしょうね。神は 「正義」 を打ち立て、それを守る 「義」 を民衆に課した。この律法は、「政治」 の法律じゃない。「十戒」 のいずれも、ヘブライ 語の lo (勿れ) ではじまっていて──たとえば、lo tirazh (汝殺す勿れ) のように──、語数の少ない・生活上の単純な戒律です。これらの戒律は、「限りない瑣事 (さじ) と瞬間とから成り立った現実の世界」 に直入している個人に対する律法です。「集団の価値」 を守るために立法された訳じゃない──神に対する絶対的な帰依を迫っている、「汝わが面 (かほ) の前に我のほか何ものをも神とすべからず」。徹頭徹尾、個人に帰する律法であるが故に、しかも、だれにとっても同じ戒律なので、悪質な 「政治」 は、民衆を束ねるために これを取り込もうとするだろうし、邪悪な 「宗教」 は 「政治」 を導入しようとする。そういう混成形態であれば、パン (物質的要件) も 「自由」 (精神的要件) も同時に満たすことのできる社会になると考えるのは夢想にすぎない──量の問題も質の問題も曖昧にされた疑似思想にすぎない。物品の豊富な・表現の自由が認められた社会において、われわれは、いっそう孤独を感じているのではないか。「社会と個人」 の関係において、「政治」 が 「社会」 の富 (集団の価値) を増やしても──「生活的に矛盾した様々な感情を満足」 させても──、個人の精神に立ち入ることができない。

 小林秀雄氏は、「政治」 (あるいは、集団の価値) には興味を感じていないでしょうが、きっと、「社会」──「個人」 (の人生) に相対 (あいたい) する概念としての 「社会」──を意識していたでしょう。かれは、個人の 「自由」 (思考、そして判断) を最大限に尊重していました。かれは マルクス に対して敬意を払っていたけれど、いわゆる 「プロレタリア 文学」 (「政治」 的意匠) を蔑視していました。

 ちなみに、本 エッセー の冠頭英文 Human beings cannnot live on bread alone のなかで綴られている Human beings という概念は、「人間」 (men, women or children) というふうに翻訳して考えるのではなくて、Human として存在することの性質、すなわち 「of man or mankind (contrasted with animals, God) たる存在」 というふうに考えたほうが キリスト の真意を わかるでしょうね──ただ、現代では、man (および、mankind) という語を使うのは politically incorrect になるでしょう。

 キリスト は、「政治」 によって裁かれ、「神の子」 としてではなくて 「罪人」 として盗人らといっしょに磔にされました。そして、最後の瞬間に、「奇跡」 は起こらなかった。キリスト に浴びせられた罵倒は、或る意味では、「政治 (現実)」 が 「宗教 (理想)」 に対する態度を示しているのかもしれない (Matthew 27-42, 27-43)。

    He saved others, but he cannot save himself! Isn't he the king
    of Israel? If he will come down off the cross now, we will
    believe in him!

    He trusts in God and claims to be God's son. Well, then, let
    us see if God wants to save him now!

 believe in および trust in は、believe および trust と 「意味」 が ちがう── この in は、存在 (existence)・価値 (value) を認めるということ。すなわち、「理想」 の存在 (実現) を示すこと。そして、「政治」 は、それを蔑んで嗤 (わら) った。

 しかし、聖書は、以下のように応えています (John 12-24)。

    I'm telling you the truth: a grain of wheat remains no more than
    a single grain unless it is dropped into the ground and dies.
    If it does die, then it produces many grains.

 
 (2011年 3月 1日)


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