小林秀雄氏は、「X への手紙」 のなかで以下の文を綴っています。
[ 1 ]
かつて俺の精神が必要以上に多忙だった時、俺は自分の頭の
中に カメラ 狂を一人同居させた。今日の世を横行する火を望ま
ない プロメテ たちは、俺にはむしろ カメラ そのものに見える。
自分の姿を映した事もなければ映す事も出来ない。思想や感情
を懐中から煙草のようにとり出してはふかしている。彼らの唯一
の頑固な信条は、物事はなるたけ遠くから眺める方が正確に
見えるという事であるらしい。いっそのこと二百万 キロメートル
ほど離れてみてはどうだろうかとよく俺は考える。ゲエテ も
豚のしっぽも同じように見えてずいぶん深刻だろうと思う。
[ 2 ]
俺には今遅々として明瞭になろうとしている事がある。それは
社会は決して俺を埋めつくす事は出来ぬ、だが俺は俺自身に
対して、絶えず アリバイ を提供していなければならぬという事だ。
社会のあらゆる表現は決して捕らえる事の出来ぬ錯乱の証左で
ある。だがこの証左を悟る精神はまた愚劣に充ちている、と。
[ 1 ] は、抽象化・汎化の陥りやすい罠を揶揄していますね。抽象化・汎化そのものが悪い訳じゃない、それらの アウトプット を そのまま──「前提」 を確認しないままに──適用する態度が迂闊だ、ということ。この迂闊さを迂闊だとは内省しないで、逆に悧巧だと思い込んでいる・機械 (ロボット) のような小悧巧な連中を私は わんさと観てきました。アルゴリズム で動作する機械は、じぶんの アルゴリズム そのものを判断することはできない──チューリング・マシーン は、それを 「停止問題」 として証明しています [ プログラム が停止するか否かを決定する プログラム を作成できない ]。「木」 「森」 および 「大局観」 という語を input すれば、「木を観て、森を見ない」 という文字列を自動的に output する マシーン (ロボット) を私は飽き飽きするほど観てきました。そう言うひとこそ 「森」 を観ていないのではないか (You're missing the big picture.)。本人は悧巧なつもりだろうけれど、「パブロフ の犬」 と同じではないか。マシーン は、じぶんを疑わない [ 疑うことができない ]。
[ 2 } では、「社会は決して俺を埋めつくす事は出来ぬ、だが俺は俺自身に対して、絶えず アリバイ を提供していなければならぬ」 という表現は、小林秀雄氏ならではの 「文体」 ですね。ここでも、かれは 「社会と個人」 を論点にしています。この文は、うっかりすると、読み違えてしまうかもしれない。というのは、「アリバイ」 という語は、「現場不在証明」 のことであって、刑事事件が起こったときに、被疑者が犯罪の現場にいなかったことの証明なので、小林秀雄氏は、いったい、いかなる現場──しかも、犯罪の現場──にいなかったことを証明したがっているのか を考えなければならないでしょうね。そう、百花繚乱のごとく現れては消えてゆく、様々な意匠の場にはいなかった、ということ──そういう錯乱の場において共犯にはならない、と。しかし、そういう錯乱の 「証左を悟る精神はまた愚劣に充ちている」と。
そういう聡明な精神が、何故、愚かなのか、、、様々なる意匠の共犯を免れるには、じぶんを晒す [ 告白する ] しかない。しかも、告白する場は、錯乱状態の 「社会」 のなかです──「独り」 じゃできない。「社会は決して俺を埋めつくす事は出来ぬ」 が、俺は、「社会」 から離れることもできないし、錯乱状態の社会のなかで告白するしかないという パラドックス です。パラドックス に陥らないためには、社会のなかで表現しなければいい、世捨て人になればいい。しかし、「人はこの世に動かされつつこの世を捨てる事は出来ない、この世を捨てようと希う事は出来ない。世捨て人とは世を捨てた人ではない、世が捨てた人である」 (「様々なる意匠」)。そういう世の中で 「ものを書く馬鹿々々しさは はっきり感じている。だから私たちは黙っていないのだ」(コクトオ のことば)──語ることの馬鹿々々しさを はっきりと感じていながらも黙っていられない、これを愚かと言わないで何と言おうか。そして、私は、その愚かさに共感を覚えます。
(2011年 3月 8日)