小林秀雄氏は、「X への手紙」 のなかで以下の文を綴っています。
[ 1 ]
(略) 人はただ人に読まれるという口実のために命をかけねば
ならぬ。そしてそれは楽しい事でもなければ悲しい事でもない。
そうではないか、君はどう思う。
[ 2 ]
君くらい他人から教わらず他人にも教えない心をもった人も
珍らしい。そういう君が自分でもよく知らない君の天才が俺を
うっとりさせる。君の心のこの部分が、その他の部分とうまく調和
しなくなっている時、特に君は美しい。決して武装したことのない
君の心は、どんな細かな理論の網目も平気でくぐりぬけるほど
柔軟だが、またどんな思い掛けない冗談にも傷つかないほど
堅い。冗談に傷つくというのは妙な言葉だが、俺はまともな言葉
にはいくらでも言い逃れを用意している癖に、ほんの些細 (ささ
い) な冗談口に気を腐らせる人々には飽き飽きするほど出会って
いるのだ。俺には口の減らない人をへこませるくらい容易な事は
ない。
[ 1 ] において、小林秀雄氏は、「君はどう思う」 と訊 (たず) ねているので、私 (佐藤正美) の意見を述べれば、「私もそう思う」。「読まれるという口実のために命をかけねばならぬ」 ことを つくづく感じているのは作家でしょうが、作家でない人たちも、命をかけないまでも、「読まれるという口実のために全力を注がなければならない」 でしょうね。作家でない われわれ一般人は、仕事上の事務的文書作成を除けば、およそ私的な文を綴る場合には、じぶんを伝えるために──そして、「正確に」 伝えるために──、じぶんの文体で表現することになるでしょう。それが 「文は人なり」 ということでしょうね。だから、「それは楽しい事でもなければ悲しい事でもない」、じぶんを ひたすら正確に記述するだけのことでしょう。
私的文書は、それが どのような真実を述べるにしても、書き手は自分自身に忠実であることをもとめられる。文を綴ることは、言語生活の終着点ではないかしら。「読む、聞く、話す」 行為には、それぞれ、独自の技術があるけれど、いずれも、文を綴る行為に終結されるのではないかしら。コミニュケーション において、われわれの感性・思考が はっきりと現れる機会は、文を綴るときでしょうね。そのひとの感性・思考が本物かどうか──言い替えれば、脳味噌が他人 (ひと) から借りた 「概念」 を堆積した記憶装置になって、頭が眼を騙していないかどうか──は、そのひとの文を読めばわかる。われわれの脳味噌が コンピュータ の記憶装置と同じになっている人たちを私は飽き飽きするほど観てきました。
「他人から教わらず他人にも教えない心をもった人」 を、私は一人知っています──勿論、かれは天才でした。かれといっしょに仕事していた人たちは、かれが高才であることを認めて尊敬していましたが、かれは温和 (おとな) しかったので [ 自足していたので? ]、まわりの人たちは、かれの天才を正しく計量できなかったようです [ かれは、まわりの人たちが想像する以上に天才だったと私は推測しています ]。かれの天才を私が感じて うっとりしたことはなかったけれど、かれと話しているときに、私は、じぶんの虚栄が剥がされてゆくことを感じて、かれの面前で私は従順であった。しかし、或る意味では、それが かれの欠点だったのかもしれない。「君の心のこの部分が、その他の部分とうまく調和しなくなっている時、特に君は美しい」──この危うさが かれにはなかった。私は 「人物批評」 を嫌っているのですが、同年齢のかれから私は生活態度をいくつか学んだので、かれに対して ここで一文綴って敬意を表します。かれと会談する機会が もうなくなったのですが、いま、かれは どうしているのかしら、、、。
「まともな言葉にはいくらでも言い逃れを用意している癖に、ほんの些細 (ささい) な冗談口に気を腐らせる人々には飽き飽きするほど出会っている」──私も、そういう人たちには飽き飽きするほど出会ってきました。そういう人たちは、「一般手続き」 から外れた対話に対応できないのでしょうね。他人 (ひと) から借りた 「概念 (キーワード)」 でいっぱいになった頭は、「一般手続き」 のなかで やりとりされる ことば に対して いくらでも対応できるけれど、キーワード を潜り抜けて飛びだす ことば に対して 「意表をつかれた」 ように感じて、頭のなかの 「分類語彙表」 で対応できないのでしょうね。「陰口」 について、小林秀雄氏は、「批評家失格 T」 のなかで、以下の文を綴っています──以下の文は、「冗談」 についても適用できるでしょう。
陰口きくのはたのしいものだ。人の噂が出ると、話ははずむ
ものである。みんな知らずに鬼になる。よほど、批評はしたい
ものらしい。
面と向って随分痛い処を言ったつもりでも、考えてみれば
きっと用心してものを言っている。聞いてもらう科白 (せりふ)
にしてものを言っている。科白となれば棘 (とげ) も相手を
傷つけぬ。人の心を傷つけるものは言葉の裏の棘である。
陰口では、人々はのうのうとして棘を出し、棘を棘とも思わ
ない。醸 (かも) し出されるきたならしい空気で、みんな
生き生きとしてくる。平常は構えてきれい事に小ぢんまりと
蒼ざめた男が、ふと、なまなましい音をあげたりする。そんな
時、私はなるほどと、きたならしさに心を打たれる。このきた
ならしさを忘れまい。これは批評の秘訣である。
人の噂を気にするな、と。人の噂を気にする奴に、噂は
決して聞こえてこない。自分の心をしゃっちょこばらせ、さて
噂を聞こうは図々しいのだ。ふと耳に這 (は) 入 (い) った
陰口に、人は ドキン とするがいい。
自分の心に自分でさぐりを入れて、目新しいものが見つ
からぬと泣き事を言っても始まらない。凝 (じ) っと坐って
一日三省は衛生にいいだけだ。分析はやさしい、視点を
変える事は難かしい。
じぶんを正直に晒すひとの言 (文体) は、「『型にはまらない』 という 『型』 で分類される」 という現象を私は珍奇に感じています。
(2011年 3月23日)