小林秀雄氏は、「年末感想」 のなかで以下の文を綴っています。
「人間が理想を掴むのじゃない。理想が人間を掴むのだ」
と シラア がいったそうだ。この逆説は正しいのである。
全く同じ事を ドストエフスキイ がいっている。「確かに
理想を捕らえるのは人間だが、理想は常に人間より現実
的だ」 と。
この理想という言葉に指導原理という言葉を置き代えて
みるとよい。同じ事だ。
何故に人間の捕えた理想は空しいのか。それは単なる
人間精神上の戯れだからだ。何故に人間を捕えた理想
は現実的なのか。自然の理法は常に人間精神より沈着
だからだ。
だが、誰が知ろう、お前の理想は捕えた理想か、捕え
られた理想か。
今年の論壇で、心理主義、理智主義の小説論が活溌
に論じられた。しかし大多数のものが単なる凡庸な方法
論であった。(略) 真に有益な方法論は、どこを切って
も血がにじむように原理がにじまなければならぬ。
人々は大多数の方法論の実益のない事を本能的には
知っている。が、実益のない方法論が必ず有害である事
はあんまり気にしないものである。前に事情に比べて後
の事情の方が遙かに錯雑しているからだ。
有害をおそれて何処に人間の進歩があるか。この言葉
は正しい、最高級の意味に使われて初めて正しい。しかし
この言葉は一般には常識の最大弱点を暗示している。
さて、今回の引用文の意味を掴むのは とても難しいですね。今回の文は、前回の文 [ 2011年 4月16日付 「反文芸的断章」 で引用した文 ] を前提にしているので、前回の文を再読して今回の文を読んで下さい。
最初の文のなかで 「理想」 と 「人間」 が説かれています──すなわち、それらの関係 R { 理想, 人間 } が論点になっています。そして、以下の所思が述べられています。
(1) 人間の捕らえた理想は空しい。
(2) 人間を捕らえた理想は現実的である。
(1) の理由として、小林秀雄氏は 「人間精神上の戯れ」 を指摘しています。それを仏教では 「一水四見」 という ことば で表しています──すなわち、事態は個々人の見かたで色々に見えるということ。だから、「真 (あるいは、理想 [ 完全な状態 ] )」 を定義するのが難しい。現実的事態に対する所思であれば、最終的には、その所思が現実的事態と対比して 「真」 を験証することができるのですが、こと 「文芸作品」 に対する批評は そうはいかない。現実的事態と対比して 「真」 を問えない 「理想」 も、「文芸作品」 の性質と同じでしょう。
ここで述べられている論点──上に引用した文で述べられている論点──は、「アシル と亀の子 U」 で論じられた争点と同じだと思います。なお、「アシル と 亀の子 U」 で述べられた論説は、「反文芸的断章」 の 2009年10月16日付 エッセー と 2009年10月23日付 エッセー を再読して下さい。私は、それらの エッセー のなかで述べた所思に対して補足すべき説の必要性を今も感じてはいない。
さて、私が今回の引用文のなかで難しいと感じた文は、以下の文です。
有害をおそれて何処に人間の進歩があるか。この言葉
は正しい、最高級の意味に使われて初めて正しい。しかし
この言葉は一般には常識の最大弱点を暗示している。
この文で争点になっているのは、関係 R { 最高級の意味, 常識 } です。「最高級の意味」 とは どういう状態を指すのか、、、「これ以上に解析できない状態まで考えぬかれた」 という意味か。すなわち、単なる 「符牒」 のやりとりではなくて、それらの 「符牒」 を始源的状態に至るまで還元して改めて そこ (始源的状態) から 「符牒」 に至る構成の道を辿るという意味なのか。そして、「常識」 とは、その 「解析」 を省いて結論のみを信じている──あるいは、「本能的に」 感知しているのみ──という意味なのか。もし、そういう意味だとすれば、確かに、単なる 「符牒」 の やりとり は、伝言 ゲーム であって実益はないでしょうね。そして、伝言 ゲーム を基底にして語られた理想は空虚にちがいない。なぜなら、理想と じぶんとの関係は他人事だから。しかし、厄介な点は、語られた理想が 「捕えた理想か、捕えられた理想か」 を簡単には見分けられないという点でしょうね。しかも、往々にして、「捕らえた理想」 のほうが論において細緻なこともある──紛 (まが) い物のほうが [ 紛い物であるがゆえに ] 化粧上手だということもある。そして、われわれは、この媚態に惹かれるのではないか。
(2011年 4月23日)