小林秀雄氏は、「年末感想」 のなかで以下の文を綴っています。引用文を説明する便宜上、それぞれの段落に番号を付与しておきます。
[ 1 }
マルクス は明瞭に且つ繊細に語っている。
「人間は文字通りの政治的動物だ。単に社交的動物である
のみならず、社会においてのみ個別化され得る動物だ」 と。
社会においてのみという主辞に重点を置いて一つの表現が
成り立つ。個別化され得るという賓辞 (ひんじ) に重点
を置いてまた別の表現が成り立つ。
[ 2 }
社会的立場から小説を読んで、左翼であるか右翼である
かばかりしか見えぬならば、読まぬ方がましである。文学
的立場から小説を読んで心理派か理智派かと心配になる
ようなら、読むだけ無益である。
[ 3 ]
どんな立場から文学を眺めようが、立場を意識しなけれ
ばものがいえない以上、眼前には依然たる文学という仮面
だけがある。重要な事は、立場を捨てる事だ。捨て切れた
時、はじめて理想が人を捕えるであろう。そして確かに
理想に捕えられるものは人間ならば、人間を捕えた理想
は、各人の独創となって現れるはずではないか。
[ 4 }
親身になって他人の作品を読む、平凡な事に相違ない。
だが不都合な事には、私たちは平凡な事が平凡に語られ
るような健康な時期に生きていない。平凡が稀有であると
いう事こそ驚くべき現代の特徴である。
[ 5 }
一般経済の危機、政治の危機を眺めて、これらと同列に
なぜ精神の危機を置いてみないのか。今日の社会の物的
混乱が殆ど怪物的な姿をしているならば、物質のうちで
最も傷つき易い精神の姿は一層怪物的な姿に見えるはず
ではないか。
[ 6 ]
(略) だが精神は依然として物質と呼ぶには余りに精神
的な或るものであり、事実と称するにはちと精妙すぎる
事実である。精神の生み出す思想は、刻々に変化する。
だが精神の原理的位相は変りはせぬ。
[ 7 ]
(略) だが、精神を精神でじかに眺める事、いかなる方法
の助力も借りずに、精神の傷の深浅を測定する事、現に
独創的に生きている精神で、精神の様々な姿を点検する
事、一言でいえば最も現実的な精神の科学、この仕事を
文学にたずさわる人々がやらないで誰がやるか。
[ 1 ] は、「社会と個人」 の論点です。それを小林秀雄氏は初期文芸論集のなかで いくども論じています。そして、私も、「反文芸的断章」のなかで いくども論考事項にしてきました。関係 R { 社会, 個人 } において、「社会」 という概念に重点を置いて論じることもできるし、「個人」 という概念に重点を置いて論じることもできる──そして、マルクス は、「個人」 を記述する やりかた でもって 「社会」 を記述する困難を感じて、「商品」 の社会的機能を記述して 「商品」 の存在を定立する [ 「機能のなかで存在の座標を与える」 ] やりかた をとった。マルクス の その意識を小林秀雄氏は、「明瞭に且つ繊細に」 というふうに綴っています。しかし、その 「政治的動物」 概念を文学のなかに持ち込んで指導的原理にした 「運動」 が昭和前半に興ったし、それへの 「反動的運動」 もあった。いずれにしても、スローガン は文学にはそぐわない。その点を 小林秀雄氏は [ 2 ] [ 3 ] で非難しています──[ 3 ] は、前回の 「反文芸的断章」 で述べた 「捕えた理想か、捕えられた理想か」 に対応して綴られています。
[ 4 ] は、前々回の 「反文芸的断章」 で引用した文 (「親身」 を述べた文) に対応しています。そして、「平凡なこと」 については、「批評家失格 T」 のなかで以下の文を小林秀雄氏は綴っています。
平凡にしか言えないのだ。平凡な真実が目立って見える時
は、嘘に対して叛逆的に現れる時に限る。
そして、[ 4 ] [ 5 ] で、小林秀雄氏は、平凡な事実が軽視されている現代を憂いています──「私たちは平凡な事が平凡に語られるような健康な時期に生きていない。平凡が稀有であるという事こそ驚くべき現代の特徴である」。2011年において、事態は、もっと深刻な状態に陥っているのではないかしら。
[ 6 ] は難しい。私には、「精神の原理的位相」 という概念が わからない。「位相」 を数学的概念として把握する職業的習性が私にあります──すなわち、「位相」 を 「空間」 とか 「構造」 [ その空間のなかで対象が一定の並びを構成している状態 ] として把握する習性が私にはあるのですが、「位相」 の他の意味として、「言語表現の主体・場面の相違によって言語がことなった姿を生ずる現象」 という意味もあるので、どちらの意味 [ 数学的意味か言語学的意味か ] を私は掴みかねています。というのは、「位相」 に対して 「原理的」 という形容詞が付与されているので、数学的意味であれば 「構造」 が意識されるし、言語学的意味であれば 「存在」 のみが意識されるので。ここでは、「言語学的意味」 のほうが 「数学的意味」 に較べて的確であるように思われるのですが、前文 「精神の生み出す思想は、刻々に変化する」 を考慮すれば、そして、「精神」 が現実的事態に対する なんらかの反応もふくんでいるとすれば、「数学的意味」 も あながち排除できないでしょう。ここでは、「言語学的意味」 で掴まえておいて、「精神は、現実的事態に反応して思想を生み出す 『存在』 である」 というふうに把握しておきましょう。
[ 7 ] は、文学者のありかたを訴えた所思ですね。「精神を精神でじかに眺める事」 こそ文学者たる性質でしょう。そして、そういう性質を いかなる いきさつ でそなえたかはわからないけれど、そういう性質をもったひとが 「文学青年」 となるのでしょう。「そこらにころがっている物指 (ものさし) を拾い上げて」精神を計るのは文学じゃない。
(2011年 5月 1日)