小林秀雄氏は、「手帖 U」 のなかで以下の文を綴っています。
形の世界と意味の世界、実質的世界と観念的世界、この睨
(にら)みあう二つの世界の、極めて自然な、苦もない調和、
そういう調和は、今日のように急速に分化し専門化する時代
精神の裡には生まれ難い。そこで衰弱をうけた演劇界に、
当然演劇から文学を追い出せ、という問題と並んで、レーゼ・
ドラマの問題が起こった、こういう内訌的叫びは避け難い。
避け難いが長つづきはしなかった。言うまでもなく一本足で
立とうと無理をしたからだ。それにもましてこういう叫び声
のかくれた不幸は、実はかつて二本足でしっかりと立った
ものへの憧憬のあまりの悪足掻 (わるあがき) であったと
いう点にあるとも言えるだろう。
ンー、見事な筆致ですね──小林秀雄氏でしか綴れない文ですね。「形の世界(あるいは、実質的世界)」 と 「意味の世界 (観念的世界)」 との対立であれば、いままで、数多くの哲学者たち・芸術家たちが論点にしてきたことなので、取り立てて目新しい論点じゃないけれど──二流の「文学青年」 たる私にでも語ることのできる点ですが──、その指摘に続いて綴られている文こそ、まさに 「小林秀雄氏の文体」 ですね。そして、この問題に苦しまない 「文学青年」 はいないでしょう──というのは、この問題は、ついには 「じぶんを見つめる」 ことを迫ってくるから。私は、若い頃 (19歳の頃) から今 (57歳) に至るまで、この問題に悩まされてきたと云っていいかもしれない。したがって、私は、この問題に悩んで この問題と対峙して戦ってきた作家を愛読してきました──たとえば、日本人作家で云えば 有島武郎氏や三島由紀夫氏で、西洋で云えば ヴァレリー 氏。
この問題に対して、(小林秀雄氏のことばを借りて云えば) 「極めて自然な、苦もない調和、そういう調和」 を実現していた人物が ゲーテ 氏でしょうね──ただ、ゲーテ 氏も、若い頃には この問題に悩まされていたようです (「ウェルテル」 を読めば それがわかるでしょう)。だから、私は、20歳代の頃に、ゲーテ 氏に憧れて──かれの文学的技術 (制作理論) が云々という観点ではなくて、生活理論すなわち in control of circumstances (あるいは、materials) の状態 [ 整った巨大な態 ] を憧れて──かれの作品を夢中で読みました(たとえば、「ゲーテ との対話 (上・中・下)」、(エッカーマン、岩波文庫))。しかし、「ファウスト」 は難しくて いまだに読み通せない、、、。
この問題を問題として強く意識して ソリューション を与えるのであれば、それら ふたつのあいだで翻弄されて その揺さぶりを強く感じながら じぶんを堕として ついには絶えるか──無意識で堕ちるのではなくて、意識して堕ちることを味わっているのであって、英語風に言えば He asked for it、若しくは、それら ふたつを融かした絶頂で絶えるか──、あるいは、悩み続けて よろめきながらも歩き続けるか [ つまり、歩き続けることが ソリューション であるということ ] のいずれかでしょうね。そして、そういう意識があれば、「悪足掻 (わるあがき)」 にはならないでしょうね。勿論、そういう悩みを抱かない人たちには、そういう問題は そもそも存在しない。しかし、「今日のように急速に分化し専門化する時代精神の裡」 では、一本足で立とうとして叫んでいる人たちが多いのではないかしら。そして、小林秀雄氏が指摘しているように、「一本足で立とうと無理を」 しているのでしょうね。しかし、彼らの目から見れば、私は 「悪足掻 (わるあがき)」 しているように写るかもしれない。
(2011年 5月 8日)