小林秀雄氏は、「手帖 U」 のなかで以下の文を綴っています。
私は何一つ捨てようとは思わない。生まれない前から
持っていたもの、生まれてから覚え込んだもの、善いもの
にしろ悪いものにしろ、大事なものも些細なものも、出来
るなら何一つ失いたくはない。自分の世間に対する態度
が、逆説的であるか素直であるかという事は問題ではない。
それは他人が見て決める事だ。恐らく私はいつも、ほんの
単純な真理に、大変な廻り道をして行き着いているらしい。
しかし私としてはただ乗物を利用出来なかったに過ぎぬ。
従って、私にとっては、発見した真理とは発見に要した私
の時間以上の意味も、時間以下の意味も持ってはいない。
だから平凡な真理をひねくれて掴んだに過ぎぬという非難
は、私には意味をなさない。何故かというと、ひねくれて
掴んだ真理と、正直に掴んだ真理とが同じに見えるような
真似は私には無意味だからだ。
そこで、次のような事が言える。
私の態度の裏の真に逆説的なものは、逆説的態度と
素直な態度とが、私には全く同じ事を意味するという点
にある。
上の文は、「手帖 U」 のなかで小林秀雄氏が ジード の文を引用したときに、ジード の文に対して小林秀雄氏が註釈として綴った文です。まさに、小林秀雄氏流の体温が感じられる文ですね──かれの著作 「批評家失格」 を読んでいれば、「批評家失格」 と同じ体温を感じるでしょう。なお、文中、赤線は私が引きました──その文が小林秀雄氏の所思だと思ったので。
さて、上に引用した小林秀雄氏の文で述べられている所感は、私の実感と重なりました。小林秀雄氏は、ジード の所感が 小林氏の実感を述べていると思ったでしょうし──だから、上に引用した文のように気持ちの隙間がない註釈を綴ることができたのでしょうし──、私は、小林氏の註釈が私の実感を述べていると思いました。特に、赤線を引いた文は、まさに、私が じぶんの生活において実感してきました。
「恐らく私はいつも、ほんの単純な真理に、大変な廻り道をして行き着いているらしい。しかし私としてはただ乗物を利用出来なかったに過ぎぬ」。そういう生活態度は、外見上、「世間知らずな御人好し (愚鈍?)」 に見えるかもしれない──あるいは、素直で単純に見えるのかもしれない。実際、私の眼前で私のことを 「苦労知らずの御坊ちゃん」 のように云った人たちが数名いた──私の人生を知りもしないくせに、そういうことを (あたかも、人物を見通す ちから のあるがごとく) 謂うことのできる脳味噌というのは、単細胞にちがいない。「無邪気が、どんなに悲しいものだか御存じなければ、無邪気だ、とおっしゃったって詮ない事だ。いじめられる人が、どんなに沢山のものを見ているのか、おわかりなければ、それはまた別の事です。無邪気な頭だって、込み入っています。大変な入り組み様をしています」 (「おふえりや遺文」)。
少し気の利いた・小悧巧な ヤツ なら、小林秀雄氏が述べたことについて、「起点は、終点でもある」 と一括するかもしれない (苦笑)──それを恥じ入って云うなら、少しは マシ かもしれない。
英語の引用句辞典を読んでいて──日本語のそれであっても、きっと同じでしょうが──、そこに記載されている文 [ 人生に関する所感・所思 ] に対して新たに書き入れる意見を私は持っていない。それらの文のなかの いくつかが私の実感と重なるということを知るのみです。天才を除いて、ほとんど すべての人たちが引用句辞典を読めば、そう感じるでしょう。そして、われわれは、それらの引用句を たやすく借用することができる──人生を あたかも見通しているがごとくに。私は、そういう連中を わんさと観てきて飽きている。それが社会の常態であるのならば、私は、乗物を利用しないで歩行する 「愚鈍」 でありたい。それが、小林秀雄氏の云う 「逆説的」 ということでしょうね。そして、小林秀雄氏が云うように、「逆説的態度と素直な態度とが、私には全く同じ事を意味する」。「真摯である」 ことと 「愚鈍である」 ことは紙一重なのかもしれない。芥川龍之介氏の ことば を借用して少し変えて謂えば、「(世間は) 常にこの紙一重の千里であることを理解しない」。
(2011年 5月16日)