小林秀雄氏は、「手帖 U」 のなかで以下の文を綴っています。
(略) 詩と小説とはどこが違うか。誰一人明言出来る者は
ない、にもかかわらず、まさしく詩というものがあり、小説
というものがある。では詩でなくては現されないあるもの、
小説でなくては表現できないあるもの、どんなに空漠と
捕え難いとしても、そのあるものは必ずある、世々を貫く
詩的精神、散文的精神、そういう厳とした実体は必ずある。
コポオ の悩みが演劇の再演劇化にあったのなら、ヴァレ
リイ、ジイド の苦しみも詩の詩化、小説の小説化にあった
のだ。それぞれ文学本質論の極端な典型を生きた人たち
だった。
こういう人たちにとって純粋文学の問題は、これなくして
彼らの生活を考える事が出来ぬ致命的問題なのだ。純粋
文学は心境的であるとか、読者の頭数が幾人あるとかいう
ような愚にもつかない問題ではなかったのである。
この問題をほんとうに生きた両人にとって、高所からこの
問題を論ずる興味がなかった事は、惟うに当然な事であった。
問題は提出されて解決されたのではない。ただ刻々と実行さ
れたのだ。しかも各自独特の方法で。
文中、「純文学」 を 「モデル (データ・モデル)」 に言い替えれば、私の思いを至れり尽くせり代辯している文です。私は Twitter で次の文を かつて 綴りました (2011年 4月25日)。
理論は実務のなかで無力なのではない。難しい理論を単純な
技術にするのが難しいのである。理論に叩かれながらも理論
に立ち向かうのが、モデルの規則を作るエンジニアの覚悟で
ある。そんな戦いなど一銭にもならない。しかし、モデルの規則
を作るエンジニアは、生活のすべてをそこに賭けているので
ある。
高所からの [ 他人事の ] 批評を聞いて たじろぐような (私は) 腰抜けじゃないつもりです (笑)。高所から物を言おうとして梯子をよじ登っている ヤツ の足がふらついているのを私には見える。そして、白々しい批評をする下衆(げす)い性質も私は持ちあわせていない──批評するのであれば、真っ直ぐに相手の眉間を割る真率さを捨てはしない。私が反吐のでるくらい嫌いな批評は、暇つぶしに The Internet を サーフ (surf) して匿名で茶茶をいれるような小賢しい品評です。そういう茶茶を入れる ヤツ は、本人いっぱし批評家気取りなのだろうけれど、次のように応えれば十分でしょう──「Show me (では、あんたがやってみせてョ)」、社会人の自信とは、じぶんが歩んできた人生のなかで身証してきた実績のうえに立った実感にあるでしょう。「やってみな (Don't talk it, take it.)」 の一言でいい──他人の言説を食いちらしてきた ヤツ には味わえない実感でしょうね、勿論 愉しみだけじゃなくて苦しみも [ 苦しみのほうが多いかもしれない、、、 ]。
(2011年 6月 1日)