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I remember you in my prayers. (Ephesians 1-16)

 



 小林秀雄氏は、「故郷を失った文学」 のなかで以下の文を綴っています。

     いつだったか京都からの帰途滝井孝作氏と同車した
    折だったが、何処かの トンネル を出たころ、窓越しに
    チラリ と見えた山際の小径 (こみち) を眺めて滝井氏
    が突然ひどく感動したので驚いた。ああいう山道をみる
    と子供の頃の思い出が油然と湧いて来て胸一杯になる、
    云々と語るのを聞きながら、自分には田舎がわからぬと
    強く感じた。自分には田舎がわからぬと感じたのでは
    ない、自分には第一の故郷も、第二の故郷も、いやそも
    そも故郷という意味がわからぬと深く感じたのだ、思い
    出のないところに故郷はない。確乎たる環境が齎 (もた
    ら) す確乎たる印象の数々が、つもりつもって作りあげ
    た強い思い出を持った人でなければ、故郷という言葉の
    孕 (はら) む健康な感動はわかないのであろう。そう
    いうものも私の何処を捜しても見つからない。振り返って
    みると、私の心なぞは年少の頃から、物事の限りない
    雑多と早すぎる変化のうちにいじめられて来たので、確乎
    たる事物に即して後年の強い思い出の内容をはぐくむ暇
    がなかったと言える。思い出はあるが現実的な内容が
    ない。殆ど架空の味わいさえ感ずるのである。上述の
    ような誇張した場合を考えないでも、母親の子供の頃の
    話を聞いている時でもよく感ずる事だが、別に何んの感動
    もなくごく普通な話をして、それでいて何かしらしっかり
    とした感情が自ら流れている。何気ない思い出話しが、
    あたかも物語の態を備えている。羨ましい事だ、私には
    努力しても到底つかめない何かしらがある、と思う。何
    らかの粉飾、粉飾と言って悪ければ意見とか批評とかいう
    主観上の細工をほどこさなければ、自分の思い出が一貫
    した物語の体をなさない、どう考えても正道とは言い難
    い、という風に考え込んでしまう。

 私が この引用文を読んだときに浮かんできた想念は、次の ふたつでした。

 (1) 故郷 (確乎たる環境が齎す確乎たる印象 [ 思い出 ])

 (2) なんらかの意見とか批評とかいう主観上の細工をほどこさなければ、
   自分の思い出が一貫した物語の体をなさない、どう考えても正道とは
   言い難い。

 小林秀雄氏は、彼の精神において、(1) が稀薄で (2) の態に陥っていると告白しています。私 (佐藤正美) は、確乎たる 「故郷の思い出」 を感じながらも、いっぽうで、(2) も感じています。私は、半農半漁の村で生まれて、そこで (小学六年生の夏まで) 育っています。そして、その思い出は、私の強烈な原風景になっています。しかし、大学生以後の生活では、(2) を否応なしに感じています。(2) の状態に浸っていて私の精神が危機的状態に陥ったとき──感性と思考とが ズレ て分裂症気味になったとき──、そのときに (1) が眼前に拡がってきます。しかし、その 「故郷」 は、はたして、私が子どもの頃に感じていた 「故郷」 なのか、、、たぶん、そうとうに変形されているかもしれない。それでも、私が 「故郷」 に帰って、その風景のなかに立ったとき、私は、なんらの思考の手助けなしに 「故郷」 を肌で感じることができました。が、私は、もう戻れない──その村で生活している人たちから観れば、私は センチメンタル な旅人にすぎない。私の 「故郷」 は、つねに、「思い出」 のなかで蘇生されるだけです。

 今の私にとって、「故郷」 は、ひとつの風景画です──その意味では、私は、セザンヌ の描いた 「山」 (或る展覧会で作品を直に観ました) が ひどく気になっています、あの単純性は、それでいて、自然の即物性を伝えていることを感じる。セザンヌ は、きっと、自然を真っ直ぐに観て描いたのでしょうが、私の自然 [ 記憶のなかの自然 ] は、明らかに、セザンヌ が単純化した自然の即物性を帯びています。私が セザンヌ の 「山」 に仰天したのは、それが たとえば 私が自然のなかに立ったときに感じる 「空気 (におい)」 を伝えているという点です──私が即物性と言った意味は、そういう意味です。彼の風景画には、人の気配はないけれど、自然の空気 (におい) は確実にある。そして、それが、私の 「故郷」 の 「思い出」 と重なるのです。

 私の過多な感性が 「故郷」 の自然のなかで生い立ったのかどうかは私にはわからないけれど、もし、私が 「故郷」 を持たなかったら、私は感性を持てあまして確実に絶えていたでしょうね。もし、私が、今、「故郷」 のなかで生活していれば、「故郷」 は 「思い出」 にはならなかったでしょうし、今の精神状態とは異 (ちが) う精神状態になっていることは確かでしょうね。都会人の センチメンタル な思いじゃない、「どうしようもない私が歩いている」 (種田山頭火)。その 「どうしようもない私」 にも 「思い出」 はある。思考で概念を作ることは簡単だけれど、「思い出」 を思考で作ることはできない。

 
 (2011年 6月23日)


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