小林秀雄氏は、「故郷を失った文学」 のなかで以下の文を綴っています。
(略) 文壇小説がどんなに若い者相手であろうともこれを理解
するには文学的教養を要する、単に世情に通達した大人が読ん
でも容易に理解出来ないような名作だって少なくはない。だが
通俗現代小説を世間の成人たちが読むとは私には考えられない。
もうわかり切った事が故意に面白そうに書いてあって、それ以上
発見が語られてないものを成人たちが読むはずがないからだ。
そこで彼らはどうするかというと髷物 (まげもの) を読む。
凡そ大衆小説通俗小説というもので、現代物によらず髷物に
よって大人の世界と交渉しているというそういう事実が外国に
あるとは私には考えられない、わが国に特殊な事情だという他
はないであろう。映画をみればもっとはっきりする。傑作は依然
として旧劇の側にある、いい俳優もいい監督も。文学に較べれば
映画は遙かに直接な芸術だ、一般 ファン が現代ものの傑作を
一番望んでいることは論をまたない。然るに実情は依然として
上述のような有様なのだ。こういう奇怪な事実は日本の映画界
でなくては今日みられないとは皆も断言する事が出来るであろう。
髷 (まげ) もの小説や チャンバラ 映画が大衆の間に非常な
勢力をもっている、こういう変則な状態が長つづきするとは思え
ぬが、容易にはほろびないだけのしっかりした根拠はもっている
事も争われない。或る人はこれを確定した思想を持たぬ崩壊期の
社会人に、感覚的な刺戟昂奮への強い欲望があるからだという風
に論ずるけれども、私はそれだけだとは考えない。それだけで
ああも成功するはずはない。単に奔放な構想や怪奇な筋立だけ
では、大衆の文学的教養がいかに低いにせよ彼らの心を魅する
事は出来ない。ほんとうに彼らの心をつかんでいるものは、もっと
地道なものなので、作品に盛られた現実的な生活感情の流れに
知らず識らずのうちに身を託すか託さないかという処が、面白い
つまらないの別れ道だと、私は信ずる。髷ものや チャンバラ 映画
にはこの流れがあるのだ、現代ものにはこの流れがないのだ。(略)
(略) 内容がどうこうなどてんで言わせないで観客の心を引きずって
行くその魅力である。現代ものの日本映画や、通俗現代小説
に一番欠けているものはこの理屈のない魅力なのだ。では何故
こういう魅力のない作品を見たり読んだりする ファン がいるか
というと、そういう人たちの大多数は作品の内容ばかりを見たり
読んだりして満足している人たちだからだ。映画を通じて世間を
眺め、小説を通じて生活を知る歳頃、作品に内容を超えた魅力ある
生活感情の流れがあるかないかなぞは問題ではあるまい。そういう
人たちが成熟して来ればもう内容なぞは馬鹿々々しくなって来る、
そこでこの馬鹿々々しさを糊塗してくれる何かしらの魅力を知らず
識らず求めて来る。この要求を映画では旧劇と西洋ものが、文学
では髷もの大衆小説が充たしているのである。チャンバラ 映画や
髷物小説に現れる風俗習慣は、西洋映画に現れる風俗習慣と同じ
くらい既に私たちから遠いものだ。しかしそういう社会書割 (かき
わり) にしっくりあて嵌 (はま) った人間の感情や心理の動きが
ある。そういう齟齬 (そこ) のない人間生活の動きが何とはしれぬ
強い魅力となって現れる。この魅力が銀座風景よりも、見た事もない
モロッコ の砂漠の方に親しみを起させるものだ。
上に引用した文のなかで、小林秀雄氏は、(われわれ日本人の) 精神の 「故郷」 があることを抉 (えぐ) りだしています。彼の説明は丁寧なので、私が註釈する必要もないでしょう。で、私が本 エッセー で考えてみたい点は、「内容がどうこうなどてんで言わせないで観客の心を引きずって行くその魅力である。現代ものの日本映画や、通俗現代小説に一番欠けているものはこの理屈のない魅力なのだ」 という点です。この点は、凡そ、なにがしかの 「表現」 について云えることでしょうね──英語で言えば、magnetic という性質でしょうね [ たとえば、He has a magnetic personality ]。
その魅力は いかなる性質で構成されているのかを述べようとしても、「理屈のない魅力」 と綴られているように、直示できないけれど、確かに存在する性質でしょうね──「美」 が定義できないのと同じ性質でしょう、だから そういう性質を 「表現する」 (あるいは、習得する) のが難しい。でも、そういう性質を、われわれは、作品 (あるいは、人物) のなかに感じる。私は日本人ですが、シベリウス (フィンランド の作曲家) の作品に対して、まさに、そういう魅力を感じます──たとえば、彼の交響曲第二番の最終章 (アレグロ・モデラート) は、私を理屈ぬきの感奮興起の状態に連れてゆきます。そして、私には、フィンランド の作曲家を聴いている日本人であるいう意識などない。
髷物について云えば、たとえば 「忠臣蔵」 を題材にした作品は多いけれど、私が見た作品の幾つかで言えば、私の感じ入った作品もあれば、毛頭惹かれなかった作品もある──つまり、「『忠臣蔵』 という題材」、世間で確たる印象の立った 「日本人好みの定番的噺」 というのは、世評で外れる確率が少ないということであって、「理屈のない魅力」 にはならない。魅力は、やはり、作品としての充実感が伝えるのでしょうね。そして、役者の力量が物を言う。クラシック 音楽の演奏会や 「能」 の舞台を観れば、それが実感できる。
小林秀雄氏の文を読んでいて、私は 「礎石」 という ことば を想い起こしました──「礎石」 を 「伝統」 と読み替えてもいい。「伝統」 は反時代的企劃です──そして、「歴史はいつも否応なく伝統を壊すように働く。個人はつねに否応なく伝統のほんとうの発見に近づくように成熟する」 (小林秀雄)。それゆえに、「人工的といふ言葉をあだやおそろかに思ひたまふな」 (三島由紀夫、「レイモン・ラディゲ」)。じぶん (あるいは、じぶんの作品) を、それ以前の 「古典」 へ正当につなぐという点が 「伝統のほんとうの発見に近づくように成熟する」 ことかもしれない。「伝統」 は、発見される実体であって、供与される実存物 じゃない。それは、つねに、「個人の」 精神において成熟する像であるけれど、間主観的に輻射され感知される メッセージ (意味) ではないかしら。そして、それは、間主観的な信頼のなかでしか感応できないのではないかしら。だから、「理屈ぬきの魅力」 なのでしょうね。
「大和魂」 という ことば で、われわれは、いったい、どういう性質を想像するのであろうか。そして、もし、平安時代の和歌が日本人の精神を表して 「伝統」 を伝えると云うのであれば、西行の歌は 「伝統」 から確実に逸脱するでしょう。和歌の形式は 「伝統」 的様式でしょうが、和歌に込められた精神を なにがしかの典型的類型で括ることはできないでしょうね──なぜなら、類型的な歌などは 「作品」 にはならないから。「作品」 は、二番煎じ じゃ駄目なのである。そういうふうに考えてみると、「伝統」 という ことば は、目茶苦茶 難しい意味になる。
「伝統」 の継承とか喪失とか世間で云われているけれど、「伝統」 は、われわれの便宜で継承できる代物じゃない。われわれが向きあうことができる 「伝統」 は つねに 「(古典的な) 作品」 であって、「作品」 のなかに結実した個人の魂 (精神) と対面するしかないのではないか。私は、「能 (夢幻能)」 の舞台構成が好きです──故人、神、鬼や なにがしかの精が化身として現れ、(中入り後で) 本体を示して、舞台装飾が殆ど省かれた空間で謡い舞う。さながら仕手の回想劇です。われわれが過去の魂と対面する致しかたを見せてくれる。
シベリウス の交響曲第二番を聴いて私の魂が共感しました。でも、それを私は 「伝統」 の継承とは謂わない──フィンランド 人は、フィンランド の愛国心を代辯した作品だと云うかもしれないけれど。「伝統」 は、「社会」 を特色付ける系統だと説明されるけれど、社会 (社会の 「進歩」) は、「いつも否応なく伝統を壊すように働く」──否、それも 「伝統」 の延長線上の できごと か。そういうふうにして観ると、「伝統」 という概念は、一つの社会で産まれて存続した生活様式の系統という意味しかないのかもしれない。「もののあわれ」 という実感は作品のなかで結実された感性であって、その実感が大衆の実感を代辯しているとは誰もわからないのではないか。そういう作品を日本人は持っているとしか云えないのではないか。そして、作品のなかに結実された心意が大衆を揺さぶる──そう言うしかないのではないか。或る作品のなかに、感応できる心意がある、そして、そうであれば、映画 「モロッコ」 観て、「この魅力が銀座風景よりも、見た事もない モロッコ の砂漠の方に親しみを起させるものだ」。相手に確実な印象・感奮を与えるという単純なことが単純じゃない。こういう単純なことを かえって 専門家のほうが鈍感になっているのではないかしら。
(2011年 7月23日)