小林秀雄氏は、「故郷を失った文学」 のなかで以下の文を綴っています。
何事につけ近代的という言葉と西洋的という言葉が同じ意味を
を持っているわが国の近代文学が西洋の影響なしには生きて来ら
れなかったのは言うまでもないが、重要な事は私たちはもう西洋
の影響を受けるのになれて、それが西洋の影響だかどうか判然し
なくなっている所まで来ているという事だ。(略) 一時代前には
西洋的なものと東洋的なものとの争いが作家制作上重要な関心
事となっていた、彼らがまだ失い損ったものを持っていたと思えば、
私たちはいっそさっぱりしたものではないか。私たちが故郷を
失った文学を抱いた、青春を失った青年たちである事に間違い
はないが、また私たちがこういう代償を払って、今日やっと西洋
文学の伝統的性格を歪曲する事なく理解しはじめたのだ。西洋
文学は私たちの手によってはじめて正当に忠実に輸入されはじめ
だのだ、と言えると思う。こういう時に、いたずらに日本精神だと
か東洋精神だとか言ってみても始まりはしない。どこを眺めても
そんなものは見つかりはしないであろう、また見つかるようなもの
ならばはじめから捜す価値もないものだろう。谷崎氏の東洋古典
に還れという意見も、人手から人手に渡る事の出来る種類の意見
ではあるまい。氏はただ、私はこういう道をたどってこういう風に
成熟したと語っているだけだ。歴史はいつも否応なく伝統を壊す
ように働く。個人はつねに否応なく伝統のほんとうの発見に近づく
ように成熟する。
この文を読んで、私は、かつて読んだ江戸文学の文を思い起こしました──「手の中 (うち) の菓 (このみ) を人に与ふる如くに非ず」 (色道小鏡)、現代訳なら 「手に持っている菓子を他人に与えるような事じゃない」 と。一人の精神から産まれた思想を伝える事は、正に 「菓を人に与ふる如く非ず」 事なのですが、思想は言葉に依って伝えられるがために、うっかりすると思想が 「菓を人に与ふる如く」 伝わるように錯覚する。というか、そういう錯覚が、「わかりやすく、てっとりばやく」 習得する やりかた のなかで常態となっているのではないかしら。凡そ 思想 (あるいは、精神) の論において、誰にでもわかりやすく論理的に語ることを私は下衆 (げす) いと感じています。
(2011年 8月 1日)