小林秀雄氏は、「批評について」 のなかで以下の文を綴っています。
「芸術の領域には、作品がとりも直さず問題の充分な解決で
ないような問題は無い」 と。言われて批評か怯 (おび) える。
作家が傲慢なのではない、批評家が小心なのでもない。何か
しら宿命的な事情がそこの処に在る。
川端康成氏が 「新潮」 の文芸時評で、徳田氏の 「和解」、
正宗氏の 「故郷」 を評して、「二篇とも勝手にしろとでもいう
外はない傑作である」 と書いていたが、うまい事を言ったもの
だ。この言葉のもつ半面の皮肉はともかく、名作というものは
多かれ少なかれこういう気味合いの感じを抱かせるものである。
批評家は名作の前に怯える。少なくとも一応は言葉なく怯えて
みせるのが批評家の礼儀なのだ。
なるほど ジイド の言葉は取りつく島もないみたようなあん
ばいだが、また作家がこういう覚悟でいてくれなければ批評家
はその作品を読むに堪えぬであろう。極く自然な矛盾の一つで
ある。
第三段落を次回に入れるか今回に入れるか迷ったのですが、今回に入れました──というのは、第三段落のなかで言及されている 「自然な矛盾」 は、それ以降の段落で明らかにされているのですが、第一段落の 「宿命的な事情」 にも対応しているし、「取りつく島もない」 ということが第二段落の 「勝手にしろ」 に呼応しているので。
さて、「宿命的な事情」 とは、作品がなければ批評は存在できないなどという子供じみた話じゃない、「批評は作品を超えてはならない」 という不文律のことでしょうね。したがって、同時代に生きる作家の物した作品に対する批評は難しいでしょうね。もし、批評家のほうが作家に較べて豊富な体験をしていれば、作家の見え透いた手口を苦笑するだろうし、そういう批評家が作品を批評するとなれば、批評家が作家の制作活動を指導するような態度になるでしょうが、いわゆる 「上からの目線」 が這入る。文芸時評では、名作を つねに読まされるとは限らないので、文学を ほんとうに鑑賞できる訳ではない。文学に値しない作品を読まなければならないことを空しいと感じるのであれば、文芸時評を止めるしかないでしょう [ 小林秀雄氏は、そうであったと私は想像しています ]。
天才的な名作とは、いかなる批評でも射抜くことができない性質を持っている──批評家が色々と論じてみても、なお、撃ち落とすことのできない相を持っている。しかし、批評家は品定めしなければならない、「勝手にしろとでもいう外はない」 と批評されているうちは、名作であっても作家の手の内が見透かされている。天才的な名作とは、怜悧な批評家をも黙らせる──品定めをするために 一応 怯えるような礼儀などできない、魅惑して惹き込んでしまう、あるいは翻弄してしまう──作品ではないか。天才的な名作を評するに、私は次の言葉しか思い浮かばない──「そんなことは みんな どうでもよいことであった。ただ 巨大なものが 徐かに 傾いているだけであった」 (伊東静雄)。
(2011年 8月16日)